実在について量子力学はおよそ次のように考えます。
(1) 測定前の電子のスピンや光子の偏光の量子状態は未確定である。
(2) 測定によって量子状態が確定し、実在化する。
(3) 測定値は特定の値の中からランダムに生じる。
(4) その確率は波動関数ψの絶対値の2乗に比例する。
これら四つの事柄から、測定と実在が密接に結びついていることがわかります。「測定に依存する物理量の実在性」という概念は量子力学特有のもので、古典物理学では測定とは無関係に確定した物理量が実在しています。つまり、古典物理学では測定前の粒子の位置は未知でも特定の位置に実在しているのです。アインシュタインはこの主張に生涯固執したのですが、量子力学では認められません。アインシュタインはパウリに対して「月は見ていないときにはないのか?」という有名な問いかけをして、物理量の実在に対する量子力学の考え方を批判しました。アインシュタインは「観測者に無関係な実在論」に生涯固執し、そのため彼は典型的な古典物理学者とみなされたのです。アインシュタインはマッハの思想に基づいてニュートンの「絶対空間/絶対時間」を否定したのですが、それにも拘わらず、彼は量子力学に対してはマッハの思想を無視しました。ですから、ボーアらコペンハーゲン派は実在性に関してアインシュタインと厳しく対立することになりました。
その量子力学における「実在性」には次の二種類を区別して考えることができます。
(粒子の検出前) 粒子は情報的に実在している(情報的実在)
(粒子の検出後) 粒子は物質的に実在している(物質的実在)
『岩波理化学辞典』には「物理量」という単独の項目はありません。これは、『岩波情報科学辞典』に「情報」という単独の項目がないのと同じです。「物理量」や「情報」という用語は、多様に使われるため一義的な定義や説明ができません。町田茂 『量子論の新段階-問い直されるミクロの構造』、丸善フロンティア・サイエンス・シリーズ(1986)に物理量の詳しい説明があります。電子の運動量の場合、古典物理学と量子力学では次のような本質的な違いがあります。
古典物理学における物理量:運動量という一つの数で表される量
量子力学における物理量:運動量そのもの、運動量の数学的表現である運動量作用素、運動量を測定して得られる測定値
ニュートン(阿部良夫訳)『自然哲学の数学的原理』、大思想文庫11、岩波書店(1935)からニュートンの絶対時間、絶対空間について確認しておきましょう。
絶対時間:絶対の、真の、数学的時間は、それ自身として基本性によって、他の対象に関係なく、一様に流れてゆく。それはまた、継続期間ともよばれる。
絶対空間:絶対の空間は、基本性により、他の対象に関係なく常に等しく且つ不動でありつづける。
システムにとって特定の対象が「実在」するかしないかは理論的に決まりません。対象がそのシステムに影響を与えるか否かによって実在性が決まります。物質的/非物質的に影響しない対象を実在すると考えるのは「オッカムの剃刀」に反します。同じものが実在したりしなかったりする例は無数に有ります。その例を幾つか以下に挙げてみます。
・色や音は、健常者には実在するが、先天的視聴覚障害者には実在しない。
・色や音は、健常者には実在するが、測定器には実在しない。
・AさんのクオリアはAさんには実在するが、Bさんには実在しない。
・心は、普通の人たちには実在するが、唯物論者には実在しない。
・数や普通名詞の指示対象は、プラトン主義者には実在するが、非プラトン主義者には実在しない。
・神は、信者には実在するが、信者でない人には実在しない。
・霊や死後の世界は、信じる人には実在するが、信じない人には実在しない。
非物質的な対象について「実在」という言葉を使う場合には必ず「制限付き」になります。これを無視した途端に無用の混乱/誤解/不信/争いが生じます。情報は、高等動物だけに実在するものではありません。測定器/コンピュータ/ロボットなど無機物にも実在します。この場合、情報は情報を表現する物質に担われて実在しています。これが「情報的実在」です。情報の実在を認めないと測定器/コンピュータ/動物/ロボットの現象は理解できません。情報の実在は、情報の非客観性やシステム依存性と矛盾しません。
物質/物理量の実在と情報の実在では実在の意味が違っています。物体の質量は、物体に実在します。名称/形/色の情報は、物体にではなく人間の脳に実在します。物体の質量の測定値という情報は、測定器に実在します。つまり、情報の実在性はシステム依存的なのです。したがって、実在という言葉は多義的ということになります。物理的実在、物質的実在、情報的実在、心的実在、機能的実在等々…
物理学者は、実在という言葉を物理的実在あるいは物質的実在という極めて狭い意味で使います。量子力学的現象はこのような狭い実在概念のみでは理解できず、情報的実在という概念が不可欠になります。
(心の謎)
心のみが実在すると主張する唯心論がある。
物質のみが実在すると主張する唯物論もある。
両者の議論が収束するあてはなく、「実在」の意味が哲学者と物理学者との間で食い違い、議論が空回りすることになります。
物理学者は、「測定器の動作や脳の働きは物質現象の一つにすぎない」と考えます。測定器や脳がもつ情報的側面が無視されています。測定器が情報と無関係なら、測定値という概念も存在しないことになります。すると、測定による検証を不可欠とする物理学という理論自体も存在しないことになります。測定器における物質現象は、物理的知識のみで説明できます。測定器が測定値情報を生成することを物理法則のみで説明することはできません。
質量、電荷、エネルギーなどの物理量自体は物体に固有な属性ですが、空間や時間は物理学者が自然現象を理解するために生み出した概念であり、自然界にそのまま実在しているものではありません。相対性理論や宇宙論に関する本には「時間、空間はどのように誕生したのか」、「空間による物質への作用」などの記述があります。時間や空間という概念は抽象的なものです。物質と同じ意味で実在しているのではありません。実在しているのは時空間ではなく、重力場や電磁場です。これらの場が物質に作用します。「光を使って空間(の距離)を測定する」という説明もよく見かけます。これは、空間の測定ではなく光伝播現象の属性を測定しています。測定している対象は、あくまでも光に関する現象です。測定の対象は、剛体の長さ/物体間の距離/変化する現象の周期などです。空間、時間そのものは抽象的概念なので、測定の対象になり得ません。
相対性理論の本には「空間が曲がっている」という説明があります。これは、幾何学的空間が曲がっていることを意味するのではありません。幾何学は数学の一部門ですから、物質とは無関係です。重力場で光の進路が曲がるので「空間が曲がっている」と表現しているだけなのです。相対性理論の時空間は、光伝播の経路(「測地線」)によって仮想的な目盛りが付けられます。この時空間は、数学的な幾何学的空間ではありません。この曲がった「物質的空間」を抽象化したものが非ユークリッド幾何学に対応しているだけです。
脳の思考回路が作ったものを実在すると錯覚しているものは多数あります。自然数、「机」「りんご」などの概念が宇宙に実在すると主張する哲学者はプラトン主義者と呼ばれてきました。私たちも時間や空間、目に映る風景、色や形などが実在していることを疑いません。その意味では私たちもプラトン主義者かも知れません。このような抽象的/感覚的なものを実在していると信じ込むのは脳の機能によります。これらが実在しているのは物理空間ではなく脳の「思考空間」の中です。
歴史的に考えれば、物理的空間と数学的な幾何学的空間は深く関係してきました。古代エジプトで開発された測量技術を抽象化し体系化したのがユークリッド幾何学です。ガウスは、(1)ユークリッド幾何学が実際に地球上で成立しているかどうか、(2)三角形の内角の和が180度に等しいかどうか、を実験で確認するため測量しました。ガウスは非ユークリッド幾何学の可能性を見出したのですが、無用の混乱を避けるために公表しませんでした。ユークリッド幾何学は、絶対的真理として誰も疑うことはなかったからです。ヒルベルトの『幾何学基礎論』では、「点」「線」「面」に日常的な意味はありません。それらを「椅子」「机」「鉛筆」などの言葉に置き換えても数学的には問題ないのです(形式主義)。