古典的世界観と確定性原理

 私たちの生活世界を支えてきたのが古典的世界観で、それは古典力学が成り立つ世界が私たちの住む世界だと主張しています。点とその連続的な運動からなる古典力学をモデルにしたのが古典的世界観で、日常世界では素朴実在論や直接実在論とも呼ばれてきました。

 古典的世界観はこの世界についての古典力学の帰結から生まれました。古典力学の基本モデルが質点モデルであり、不変の質点の連続的運動変化です。質点が実在し、その位置がいつも確定していること、つまり、「質点の確定性原理」が前提され、力学的な決定論が古典的世界観の骨格になっています。

 こうして、世界は私たちとは独立に実在し、決定論的に変化しています。決定論的な姿で実在する対象からなる確固とした世界、客観的な実在世界は私たちの表象、認識に関わる微妙な事柄をすべて巧みに省略して出来上がった、プラグマティックな生活の知恵です。それゆえ、人が自らの表象に気づき、それを認識し始めると、私たちとは独立した「客観的実在」といった概念がまず揺らぎ出すのです。

 文法規則を常に気にしながら話し、書き、読む場合とそれらを無意識に使う場合とで何がどのように異なるのでしょうか。言葉が主人公ではなく、語り、述べ、描かれる内容が主人公になるのと同じことが古典的世界観の場合にも成り立っているようです。私たちの世界は言語がなくても存在すると誰もが思います。言語以前に世界があるから、とその理由を述べてもいいでしょう。同じように、幾何学以前に世界が存在したから、という理由も実在論の強い証拠となってきました。

 古典力学に心は登場しません。心は質点でもなければ、物理量をもつ対象でもありません。古典力学の世界は純粋に機械論的です。生活世界に溢れる心的なものは古典的な世界の中には居場所を見つけることができません。これがデカルト的な二元論につながっています。そして、その帰着の一つが「自由と決定」のアポリアです。このアポリアは古典的世界観が生み出した厄介な問題であり、そのことだけでも古典的世界観が問題を孕んだ世界観であることを示しています。

 確定性の原理は存在論的、認識論的の二つに分けることができます。そして、実際の考察、探求の場面では認識論的な確定性原理が使われることになります。決定論あるいは確定性原理は表象装置を意識的に明確化することによって、一層明らかに表現できます。実在論から決定論への議論の精緻化によって、理解のための装置の介在が浮かび上がってきます。そこから、決定論は認識的なものであり、理論に相対的に決まるものになります。

 同じように非決定論も理論が非決定論的であることから帰結するもので、不確定性原理あるいは非決定論が存在することになり、それらは同じように認識的な主張です。認識上の非決定性は、ゲーデル不完全性定理からハイゼンベルク不確定性原理まで、様々な不可能性の定理を含んでいます。

 「確定性原理」とは異なる「不確定性原理」が成り立つ非古典的な世界とはどのような世界なのか、それが次の課題です。