A君の好きな決定論=A君が操作できる決定論  

 元来、決定論(determinism)は「実在するものとその変化は決定的、確定的だ」と主張するためにつくられた存在論的概念です。A君がこの決定論を好きになれないのは、それが私たちの認識とは何の関係もないからです。私たちはものや出来事が確定的で、ぼんやりしていないと思い、それを時々は確認しているのですが、そんな私たちとは無関係にものや出来事が起こっているという決定論の主張は、私たちの疑念や期待を無視し、切り捨てるためか、A君には頭ごなしの暴力的な主張としか思えないのです。私たちの認識や知識と密接に関係した決定論を具体的に表現しているのが認識的な予測可能性です。予測や予見は優れて認識的な行為で、それによって何が決定しているかを知ることができるのです。

 決定論と予測可能性を同一視してよい理由があります。それが古典力学の第2法則です。第2法則と微分方程式のシステムの解とが存在して、しかもその一意性を保証する数学的定理とが結びつくことによって、システムの初期条件が定まれば正確な予測が可能であることが数学的に証明できます。これによって、システムの現在の状態から演繹される未来や過去の状態がただ一つ存在することが保証されます。さらに、この決定論は上の予測が実際に構成的に計算可能であるという定理によって補強されます。ただ単に予測が可能というのではなく、実際にその予測を計算できるのです。こうして実在的な決定論は一意的で、正確な予測可能性に翻訳できることになります。

 システムの任意の時点での完全な状態は、その完全な初期条件(=その時点の状態の値)を与えることによって決定できます。システムのすべての可能な状態の集合が相空間であったことを考えれば、初期条件とはそのシステムの過去に環境が与えた結果のある時点での状態に関するまとめでもあります。

 取りつく島もなかった決定論古典力学の予測可能性によって私たちの認識世界で表現できることになりましたが、それを可能にした古典力学のエッセンスをまとめておきましょう。古典力学は単純な仕方で自然を記述します。対象は恒常的で、時空内に局在する質量をもった存在です。状態は対象の変化する性質であり、空間内の位置と時間的な瞬間によって、エネルギーと運動量を使って記述されます。時間は時計によって測られる出来事の間の関係です。時計は位置が観測できる運動の工夫です。空間と位置はメートル棒によって測られる対象の間の関係です。メートル棒はその形が印を使って分割できる工夫です。運動は位置の時間的な変化です。それは決定論的で、何の不思議もなく、保存されます。また、運動は重力や他の相互作用によって引き起こされます。

 これが古典的変化とその記述のあらまし。私たちが触り、親しむことのできなかった決定論は、工夫し、操作でき、計算できる古典力学としてA君の好きな決定論に変身したのです。でも、この変身は古典力学の適用範囲内でしかできません。

 アインシュタインの相対論は電磁気学を前提とせず、「運動学的」な検討だけからローレンツ変換を導いています。そして、これを単なる数学的表現ではなく、時間、空間に関する大きな認識の転換として提示したのがアインシュタインの真骨頂でした。

 さまざまな実験結果から、「観測者の運動に依存することなく、光速度は同じように観測される」ということが示唆されていました。これを「説明されるべきこと」から「議論の出発点」へと逆転させたのが「光速度不変の原理」です。これは説明することを放棄し、それを仮定しただけに見えるのですが、自然の姿をあるがままに捉え、それによって多くのことが説明されるという結果をもたらしたのです。

 また、相対論はエーテルを使わずに光に関する諸現象を説明することに成功しました。その代わりに、宇宙の至るところに存在する「場」にその役割を与えました。それまで電磁場は物質あるいはエーテルの状態として考えられていましたが、そのエーテルの存在を捨てるということは、電磁場を担うものを空間そのものとすることです。こうして、物理学は物質と場の織り成す相互作用として描かれていくことになります。これらはまだA君が知らないことですが、すぐにA君はこれらだけでなく、量子力学の非決定論的主張も学び、彼が好きな決定論を越えて、彼が好きな非決定論を自分のものにしていく筈です。