量子力学

運動変化の古典的描像(4)
古典物理学の総まとめ]
 対象のどんな運動変化に対しても、私たちは不変の性質と変化する性質を区別することができます。また、すべての運動は変化が最小になるように起こります。
 まず、十分に小さな対象あるいは粒子の不変的な側面はその質量と電荷によって完全に記述されます。質量と電荷は、したがって、古典的対象の局所化された本質的な性質です。質量も電荷も粒子のもつ加速度によって定義されます。電荷と対照的に、質量は常に正です。質量によって対象の環境との相互作用が記述され、電荷によって放射との相互作用が記述されます。
 次に、対象のすべての可変的側面、つまり、対象の「状態」は位置と運動量、あるいは角運動量と方向を使って完全に記述できます。対象の状態は連続的に変化することができます。これら可変的側面が異なる観測者がどのように記述するかを調べることによって、それらが3次元のベクトルによって完全に特徴付けられることがわかります。すべての可能な状態の集合は「相空間(phase space)」と呼ばれ、延長する物体の状態はそれを構成する粒子すべての状態を知ることによって与えられます。
 粒子の状態は観測者に依存します。粒子の状態は運動によって生じる変化を計算するために使われます。ある粒子にとって、その変化は観測者とは独立していますが、その状態はそうではありません。異なる観測者によって見出される状態は相互に関連があり、この関係が運動の「法則」と呼ばれています。例えば、時間が異なる場合、それらは時間発展の方程式(evolution equations)と呼ばれます。異なる位置や方向の場合、変換関係(transformation relations)と呼ばれます。そして、異なるゲージの場合、それらはゲージ変換(gauge transformations)と呼ばれます。
 質量のない対象の運動、つまり、放射も観測されます。日常生活で見られる放射といえば光ですが、それは電磁波として伝播します。質量のない対象の速度は自然の中の最大速度で、すべての観測者に対して同じです。放射の本質的な性質はその分散関係とエネルギー-角運動量の関係です。放射の状態は電磁場の強さ、位相、極性化、カップリングによって記述されます。

(問)古典物理学は対象の可変部分と不変部分をどのように分け、どのように組合わせて変化を表現しているでしょうか。

 物理世界についての現在の知見に簡単に触れてみましょう。私たちの物理環境は有限の年齢です。それは長い歴史をもち、すべての物質は他の物質から離れるように動いています。私たちの環境の大域的な位相は明確ではありません。運動は単純な規則にしたがっています。変化はいつも最小です。質量はエネルギーに等しく、すべてのエネルギーは時空が告げる仕方で動き、空間はエネルギーが告げる仕方で動きます。この関係によって星、投げられた石、光、波の運動を記述することができます。静止と自由落下は同じであり、重力は曲がった時空です。質量は等角の対称性を破り、それゆえ、空間を時間から分けます。
 どんな二つの対象も同時に同じ場所を占めることは不可能です。これは人が遭遇する電磁気の運動についての最初の言明です。より詳細な研究から、電荷は他の電荷を加速し、電荷は長さと時間を定義するのに必要であることがわかりました。電荷は電磁場の源です。光もそのような場です。光は最速の速さで動きます。物体と違って、それは相互に貫通可能です。要するに、対象の運動には二つのタイプがあることがわかりました。一つは重力によるもの、他は電磁場によるものです。そして、後者だけが真の運動です。
 結局、古典物理学は私たちに運動はそれがどのようなものであれ、保存されることを示しました。運動は連続的な実体に類似しています。それは決して壊れず、けっして造られないのですが、いつも分布が変わります。保存則によって、すべての運動は予測可能で、可逆的です。運動の保存によって、私たちは時間と空間を定義できます。さらに、古典的運動は左右対称的です。まとめれば、日常生活の経験とは違って、古典物理学は運動が予測可能なことを示しました。つまり、自然には私たちが驚くべきことは何もないということです。古典的な自然世界に驚くのは私たちが知らないからであって、知っていれば驚くべきことは何もないのです。
 古典物理学の成果をさらに要約するなら、次のように述べることができます。
 
 自然には私たちが驚くべきことは何もない。というのも、古典力学は無限概念を使った、運動の完全な記述だからである。今までに使われたすべての古典的概念は、それらが運動、空間、時間、あるいは観察できるものの何であれ、無限小も無限大も存在すると仮定して考えられている。速度の制限にもかかわらず、特殊相対性理論はまだ無限の速度を許し、一般相対性理論は、ブラックホールの限界にもかかわらず、それに可能な限り近づくことを許している。電磁気学と重力の記述では積分微分は無限にある中間の段階の省略である。

 どんな場合でも、自然についての古典的な記述には無限が導入されます。そして、そこには何の驚くべきこともないことが見出されます。また、この無限が決定論を含意することもわかります。しかし、物理学を無限に基づいて展開することは完全に正当化できるわけではありません。というのも、物質の原子的構造は無限小の存在を疑問視させるし、宇宙の地平は無限大の存在を疑問視させるからです。

[自然の追求は終わるのか] 
 19世紀末にはマクスウェルの電磁気学ガリレオから始まる力学によって物理学の主要な法則は十分にわかったという主張がなされていました。でも、1890年から1920年の間にこれら古典物理学は完全にその基礎を破壊されました。ガリレオ以来築き上げられてきた古典的世界観も崩れ去りました。相対性理論量子力学の登場によって、驚きがないと思われた自然は一挙に驚きに満ちた自然に変貌してしまいました。

(問)古典力学の完成が結果として何の驚きも存在しない形で物理世界を説明できたことは、私たちの好奇心が驚きから生まれるという主張に対して何を意味しているのでしょうか。不安や驚きがなくなることは古典力学の正しさを裏付けているのでしょうか。

*驚きや奇跡があり、予測不可能な事柄が起こる可能性のある世界と言われると、私たちには当然のように思えるのですが、古典物理学の描く世界は驚きも奇跡もなく、予測可能な事柄しか起こらない決定論的な世界なのです。
*ここまでで決定論的な古典物理学の変化についての話は終わりです。以後は非決定論的な量子力学について考えることにします。