『愚管抄』からの夢想

 大隅和雄(『愚管抄』、全現代語訳、講談社、2012)は『愚管抄』における「冥顕」を「目に見えぬ神仏の世界と、人間の世界」と訳しています。また、慈円が「「冥」の世界を構成するものを「冥衆」と名付けた」とし、同書における冥衆として「皇祖神である伊勢大神宮=天 照大神と藤原氏の祖神である春日大明神=天児屋根命」と「化身・権化の、「怨霊」、そして「天狗・地狗・狐・狸などの邪悪な魔物」の四つを挙げています。冥とは目視できない世界のことであり、仏神と権者、怨霊、邪鬼の四つが冥衆だとする大隅説は末木文美士池見澄隆によって通説となっています。近年では、この理解が『愚管抄』以外の冥顕論にも適用されつつあります。でも、『愚管抄』における「冥」は不可視の意で、不可視の怨霊邪鬼なども冥衆だという理解は臆測だという考えもあります。

 『愚管抄』は冥然たる道理と顕然たるそれの離合によって歴史を叙述しようとしました。仏神は道理を変更しますが、そのような冥の道理を人はうまく理解できず、世はますます乱れていき、それでも学問を積めば、冥顕の道理を理解できると考えられました。

 平安末期に天狗は憑依する怨霊だという考えが広がりました。団塊世代の私には「牛若丸と天狗」や大佛次郎の『鞍馬天狗』で親しみのある「天狗」ですが、天狗の古い一例が仏道を妨げる「天魔」でした。『源平盛衰記』の後白河法皇住吉大神との天狗問答に「天魔という鬼を天狗と呼ぶ」とあります。天狗には六つの神通力があり、人なら誰もが潜在的、可能的に持っている能力を顕在化、実在化したものと言われています。

 

 そこで、天狗、あるいは天魔の能力がどのようなものかをまずは数学的に夢想してみましょう。無限には可能無限と実無限(Potential Infinity and Actual Infinity)があり、現在の数学では両方の無限が自由に使われています。限りなく続く無限小数を考え、それが完結した数列になっているとしてみましょう。完結していると認識できるのが冥界にいる神通力をもった天狗です。でも、人間の視点で数列を捉えた場合、どこまでいっても終わらず、ただ限りなく続くだけです。これが可能無限です。つまり、天狗は完結した無限を経験できるのですが、私たちは終わりのない可能無限しか経験できないのです。ですから、経験主義者のアリストテレスは可能無限しか認めませんでした。

 冥界の天狗は顕界にいる私たち人間より能力が高く、実無限を実際に経験し、理解することができます。でも、私たちは具体的、構成的に実無限を作り出すことができません。ですから、顕界では自然数や実数は限りなく続く可能無限として構成することしかできず、自然数の集合や実数全体という実無限は物理的なものではなく、数学的な存在ということになります。でも、冥界の天狗は無限を完結した対象として経験し、認識できるのです。

 任意の数xについて、その数が自然数なのか、整数なのか、有理数なのか、無理数なのか問われたとしましょう。まず、この数xが0.・・・・・のような、0より大きく、1未満の数なら、この数は有理数無理数のどちらかです。でも、どちらなのか判定する術がありません。有理数の定義によれば、その数が、途中で終わっているか、または小数部分のどこかから、数の並びが循環になっているかのどちらかなら、それは有理数です。このとき、0.2を0.1999999・・・・とするなら、有理数は小数部分のどこかから数の並びが循環している数と考えることができます。循環の代表例に1/7があり、1/7=0.142857142857142857・・・・というように142857が無限に繰り返される部分がみつかれば、それは有理数だと判定できます。

 では、与えられた数x有理数無理数かを可能無限の立場から考えてみましょう。与えられた数xは最初の小数第一位から順にどこまで見ていっても循環する部分が見つからない場合、これは実数であると判定していいでしょうか。小数第n位までは循環している部分は見つかっていないということしか言えず、もしかしたら、小数第n+1位からは循環しているかも知れません。これでは、いつまでたっても有理数無理数か決められません。そもそも実数を確定的に存在させることができないのが可能無限なのです。

 でも、実無限なら、与えられた数x有理数無理数かを判定できます。なぜなら、天狗の視点で見れば、無限に続くか否かが容易に見てとれるからです。無限につづく小数部分さえ、それはすべて決まっており、それゆえ、天狗には分かっています。無限につづくものがすべて分かっていれば、それが有理数無理数かの判定は簡単です。このような実無限の存在を保証しようというのが公理的集合論ZFの無限公理です。無限公理は、

0を含むある集合があり、しかもある数nがその集合のメンバーなら、その次の数n+1も同様にその集合のメンバーであるような集合「自然数」が存在する、

と主張しています。「自然数という集合が存在する」と宣言することによって、自然数という無限にある数のすべてを含むものとして完結させています。

 しかし、実無限は矛盾を孕んでいます。例えば、実無限を認めると、自然数のすべての数が書き尽くせることになります。限りなく続くものが、全て分かっていると考えるのは、人間には理不尽です。でも、このような理不尽な実無限を認めることによって無理数の存在が結果します。私たちには無理数は実無限によって理不尽に生み出されたものであっても、天狗には無理数は実無限によって正当に生み出されたものなのです。

 実数は自然数にない性質を多くもっています。最も実数らしい性質が「完備性(completeness、連続性)」(*)であり、この性質のお陰で微積分が可能となり、それを使って自然を連続的に考えることができています。連続する時間や空間を表現するのに最も適した実数は数学者の関心の的となってきました。ギリシャ人が使わなかった実数こそ古典物理学の不可欠の表現装置として使われ、まずはニュートンライプニッツの無限小(infinitesimal)、次にコーシーの極限(limit)といった概念を通じて実数の理解が浸透していきました。

*「完備性」は私たちが天狗擬きになるための性質なのです。

 

 次は物理学的な夢想です。古典的な世界は驚きのない世界だと私たちは考えてきました。私たちが生活する世界は驚くことが次々起こる世界だと思っていますが、古典物理学が描く世界には驚くべきことは何もないと思っています。なぜでしょうか。

 対象の運動変化には不変と可変の二つの性質があり、運動は変化が最小になるように起こります。粒子の不変的側面はその質量と電荷によって完全に記述され、質量も電荷も粒子のもつ加速度によって定義されます。電荷と対照的に質量は常に正で、質量によって粒子の環境との相互作用が、電荷によって放射との相互作用が記述されます。粒子の可変的側面はその状態で、位置と運動量、あるいは角運動量と方向を使って完全に記述できます。状態の変化は連続的です。これら可変的側面は3次元のベクトルによって完全に表現でき、すべての可能な状態の集合は「相空間」と呼ばれ、物体の状態はそれを構成する粒子すべての状態を知ることでわかります。

 粒子の変化は観測者とは独立していますが、その状態はそうではありません。異なる観測者によって見出される状態は相互に関連があり、この関係が運動の「法則」と呼ばれています。例えば、時間が異なる場合、それらは時間発展の方程式(evolution equations)と呼ばれます。異なる位置や方向の場合、変換関係(transformation relations)と呼ばれます。そして、異なるゲージの場合、それらはゲージ変換(gauge transformations)と呼ばれます。質量のない対象の運動、つまり、放射も観測される。日常生活で見られる放射は光で、それは電磁波として伝播します。質量のない対象の速度は自然の中の最大速度で、すべての観測者に対して同じです。放射の状態は電磁場の強さ、位相、極性化、カップリングによって記述されます。

 電荷は他の電荷を加速し、電荷は長さと時間を定義するのに必要です。電荷は電磁場の源です。光もそのような場です。光は最速の速さで動きます。物体と違って、それは相互に貫通可能です。要するに、対象の運動には二つのタイプがあり、一つは重力、他は電磁場によるものです。そして、後者だけが真の運動です。

 結局、古典物理学は私たちに運動が保存されることを示しました。運動は連続的な実体に似ています。それは決して壊れず、けっして造られませんが、いつも分布が変わります。保存則によって、すべての運動は予測可能で、可逆的です。運動の保存によって、私たちは時間と空間を定義できます。さらに、古典的運動は左右対称的です。まとめれば、日常生活の経験とは違って、古典物理学は運動が予測可能なことを示しました。つまり、自然には私たちが驚くべきことは何もないのです。

 古典力学は無限概念を使った運動の完全な記述で、驚くべきことはありません。どんな古典的概念も、無限小も無限大も存在すると仮定して考えられています。特殊相対性理論はまだ無限の速度を許し、一般相対性理論ブラックホールに可能な限り近づくことを許しています。電磁気学と重力の記述では積分微分は無限にある中間の段階の省略です。さらに、無限が決定論を含意することもわかります。でも、物理学を無限に基づいて展開することが正当化できるわけではありません。というのも、物質の原子的構造は無限小の存在を、宇宙の地平は無限大の存在をそれぞれ疑問視させるからです。