私たちは様々な世界で生きています。常識的な日常の世界、個人の精神的な世界、科学的な世界等々、複数の世界が共存し、それぞれ相対的な位置をもっています。そのような多様な世界の中から二つの世界を取り出し、比べて見ましょう。そして、それらが私たちが住み、共有する世界なのかどうか、考えてみて下さい。
(1)古典的な世界=法則に支配された驚きのない世界
私たちが生活する世界は驚くことが次々と起こる波乱万丈の世界だと思われていますが、古典物理学が描く世界には驚くべきことは何もないのです。驚くべきことが何もないとは驚くべきことに思えますが、一体どういうことでしょうか。対象の運動変化には不変と可変の二つの性質があり、運動は変化が最小になるように起こります。運動は余計な回り道をせず、最短距離を最小の効率で行われることになっています。
粒子の不変的側面はその質量と電荷によって完全に記述されます。質量も電荷も粒子のもつ加速度によって定義されます。電荷と対照的に質量は常に正の値をもち、質量によって粒子の環境との相互作用が、電荷によって放射との相互作用が記述されます。
粒子の可変的側面はその状態ですが、位置と運動量、あるいは角運動量と方向を使うことによって完全に記述できます。状態の変化は連続的です。これら可変的側面は3次元のベクトルによって完全に表現でき、すべての可能な状態の集合は「相空間」と呼ばれ、物体の状態はそれを構成する粒子すべての状態を知ることによってわかるのです。
粒子の変化は観測者とは独立していますが、その状態はそうではなく、観測者に依存しています。異なる観測者によって見出される状態は相互に関連があり、この関係が運動の「法則」と呼ばれています。例えば、時間が異なる場合、それらは時間発展の方程式(evolution equations)と呼ばれます。異なる位置や方向の場合、変換関係(transformation relations)と呼ばれます。そして、異なるゲージの場合、それらはゲージ変換(gauge transformations)と呼ばれています。質量のない対象の運動、すなわち、放射も観測されます。日常生活で見られる放射は光で、それは電磁波として伝播します。質量のない対象の速度は自然の中の最大速度で、すべての観測者に対して同じです。放射の状態は電磁場の強さ、位相、極性化、カップリングによって記述されます。
電荷は他の電荷を加速し、長さと時間を定義するのに必要なものです。電荷は電磁場の源です。光もそのような場の一つです。光は最速の速さで動きます。光は物体と違って、相互に貫通可能です。要するに、対象の運動には二つのタイプがあり、一つは重力、他は電磁場によるものです。そして、後者だけが真の運動なのです。
結局、古典物理学は私たちに運動が保存されることを示してくれました。運動は連続的な実体に類似しています。それは決して壊れず、けっして造られないのですが、いつも分布が変わるのです。保存則によって、すべての運動は予測可能で、可逆的であることになります。運動の保存によって、私たちは時間と空間を定義できます。さらに、古典的運動は左右対称的です。まとめれば、日常生活の予測できない経験とは違って、古典物理学は運動が予測可能なことを示しました。つまり、自然には私たちが驚くべきことは何もないということです。
古典力学は無限概念を使って運動を記述・説明しますが、その記述・説明は完全で、驚くべきことはどこにもないのです。どんな古典的概念も、無限小も無限大も存在すると仮定して考えられています。特殊相対性理論はまだ無限の速度を許し、一般相対性理論はブラックホールに可能な限り近づくことを許しています。電磁気学と重力の記述では積分と微分は無限にある中間の段階の省略なのです。さらに、無限が決定論を含意することもわかります。とはいえ、物理学を無限に基づいて展開することが正当化できるわけではありません。というのも、物質の原子的構造は無限小の存在を、宇宙の地平は無限大の存在をそれぞれ疑問視させるからです。無限を自在に使って自然を考えて構わないという保証はどこにもないのです。
(2)宗教の世界=奇蹟という驚きに溢れた世界
(1)のタイトルは「古典的な世界=法則に支配された驚きのない世界」で、私たちが生活する世界は驚くことが次々起こる世界だと思われているにもかかわらず、古典物理学が描く世界には驚くべきものは何もない、という内容でした。そのためか、(1)を読んでも、驚かない人ばかりだったのではないでしょうか。古典的な物理世界と違って、私たち人間の世界は驚きだらけですが、それらの中でも奇蹟の中の奇蹟と言えば宗教の存在でしょう。宗教そのものが二足歩行や言語の獲得と並んで、人類の運命を左右した奇蹟と言ってもいいでしょう。人間以外の生き物で宗教をもつ生きものはいません。その宗教は自らの存在という奇蹟の他に実に多くの奇蹟を生み出してきました。聖書は奇蹟の集積ですし、中でも聖母マリアに関する奇蹟が溢れています。大乗仏教の世界は仏さまだらけ、それにもましてヒンズー教の神様の数は限りないほどで、どの宗教世界も私たちの生活世界を遥かに超える奇蹟に満ち満ちています。
カトリック教会には聖母マリアは受胎の瞬間から原罪を免れていたとする教えがあります。これは「無原罪の御宿り」と呼ばれています。無原罪とは、罪の結果の死や、死に至る老いを免れることです。このために、描かれる聖母はみな若い女性で、有名なムリーリョの「聖母」は若過ぎる聖母です。そして、聖母は死ぬのではなく、身体とともに昇天するとされています。これが「聖母被昇天」。このために聖母は若い身体とともに生き続けます。これが私たちの世界への聖母の幾度もの出現の根拠となっているのです。老婆の聖母はいないのです。
最初の女性イブは神に対して不従順な処女でしたが、新約聖書の最初の女性マリアは従順な処女でした。4世紀になるとマリアと同じように処女のまま生きる事を選ぶような女性が「キリストの花嫁」として修道生活を送るようになります。カトリック教会が分裂し、プロテスタント教会誕生した1530年代には、イコノクライム(聖像破壊運動)が盛んに行われ、マリア像が取り壊される時期がありましたが、マリア崇拝が復活し、多くの聖母出現が報告されるようになります。現在まで実に多くの聖母マリアの出現が報告され、調べられ、カトリック教会によって認められてきました。まさに奇蹟の承認です。
その一例がメキシコでの1531年のグアダルーペの聖母出現です。カトリック教会は、グアダルーペの聖母への信仰が、アステカのトナンツィン女神と関連したものだと考えました。実際、聖母が出現した丘はトナンツィン女神の信仰の中心地でした。教会は、インディオ達がキリスト教を受け入れやすくするために、古来の宗教とキリスト教との共存、融合を許容したのです。16世紀末頃から17世紀の初めには、聖母によって重病人が回復する奇蹟がたびたび起こり、聖母への信仰は強まっていきます。そして17世紀には、この「褐色の肌の聖母」はメキシコのあらゆる階層の人々の信仰の対象となりました。
聖母マリアは日本を含め世界各地に出現し、メキシコのインディオには「グアダルーペの聖母(Nuestra Señora de Guadalupe)」、日本人の潜伏キリシタンには「マリア観音」として崇拝されてきたのです。これは驚くべきこと=奇蹟と理解されてきました。
(1)と(2)の話を読み終えて、あなたなら二つの話をどのように考えるでしょうか。