義理と人情:スケッチ

 義理と人情となれば私の年代は高倉健のヤクザ映画を思い出してしまうが、その起源は江戸時代。江戸初期の朱子学林羅山の『藤原惺窩先生行状』に義理が登場する(藤原惺窩は羅山の師)。義理は「人の履むべき道」という意味で、朱子学によって導入された。続いて、陽明学中江藤樹は「明徳のあきらかなる君子は義理を守り道を行ふ外には毛頭ねがふ事なく」(『文武問答』)と述べている。朱子学武家の道徳として利用され、大名社会の秩序を維持する道具となり、生活に義理(義)が浸透していった。

 「義理人情は江戸文化の草化現象」 と言われる。草化とは、書の書体、真書、行書、草書の真行草の草のこと。つまり、朱子学の杓子定規の義理人情ではなく、仮名文字感覚で、和様化した義理人情を指している。その義理と人情の江戸版の書き換えを行ったのが井原西鶴近松門左衛門である。義の草化が義理、仁の草化が人情である。

 井原西鶴(1642-1693)は大阪の富裕な町人。俳諧に親しみ、30歳頃には談林派の代表的な俳人として、古風(貞門)打倒の運動の先頭に立って活躍した。41歳のとき、浮世草子の第一作『好色一代男』を発表。以後、連句的な発想と説話的な手法による独自の簡潔な文体による諸作品を発表する。その根底にあるのは、身分制度や家族制度、封建的人間疎外への抵抗であり、物心両面で追い詰められた市民の視点でみつめ、諷刺をこめた軽妙な笑いの中に義理と人情を描き出している。

 近松門左衛門(1653-1724)は武士の家に生まれ、青少年時代を京都で過ごした。20代なかばから作者生活に入り、72歳で没するまでに、坂田藤十郎たちのために歌舞伎脚本を二七編、初代・二代の竹本義太夫宇治嘉太夫たちのために浄瑠璃を約100編書いた。義理と人情を重んじる世話物の主人公たちを通じて、民衆の悲哀を表現した。義理と人情を演劇化したのが、儒教と世情に通じた近松で、武士は封建秩序を守って義理に厚く、町人は情に流れて義理を欠きやすいものと考えて、武士の義理をテーマにして時代物を、町人の人情をテーマにして世話物をつくった。

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