義の人とは?

 24日の新潟日報衆議院選挙の第5区の候補者二名に上杉謙信の「義の人」について質問しています。未だに上越地域での謙信の威厳を強く感じますが、質問が適切かどうかも気になるのです。

 上杉謙信林泉寺山門の扁額に書いた「第一義」は「最高の道理、基本原理」を指す用語。一方、「義」は儒教の主要概念で、義は正しい行いを守ることであり、人間の欲を追求する「利」と対立する概念です。義は古代中国から使われてきました。孔子は「義を見てせざるは勇なきなり」と述べ、人に道として当然しなければならないことを知りながら、それを実行しないのは勇気がないと諭しました。孟子も「仁は人の心、義は人の道」と説いています。江戸時代になって武士道が確立され、「義」が武士の行動規範にされると、「義」の定義があちこちに登場します。林子平は義を「道理に従い、ためらわずに決断する力。死すべきときに死し、討つべきときに討つ」と説明しています。

 さて、「謙信は生前からその義理堅さが有名だったが、上杉家もこの謙信の義の心を積極的に継承していく」という文に登場する「義理」と「義」は果たして同じ意味なのでしょうか。こんな意地悪な問いを出されると、大抵は答えに窮してしまいます。「義の人」とはスマートな表現ですが、この「義」とは何を意味しているのでしょうか。とても多義的で、正しく使うには実に厄介な言葉です。儒学に遡っての「義」は、歌舞伎の「義理」ではありません。でも、多くの昭和人が「義」によって共感したのは高倉健の「義理人情」でした。あるいは、忠臣蔵の「忠義」、そして、『虞美人草』の「道義」でした。時代と共に「義」はその意味を微妙に変えてきたのです。

 こうなると「義の人」の「義」が何を指すかは余程しっかり考えないと定かではなくなります。「義の人」が「第一義」という扁額を林泉寺山門に残したとしても、両方に登場する「義」は漢字が同じという程度のものでしかありません。文脈が定まらないと何を指すかが決まらない「第一義」と、行動規範、倫理としての「義」は似て非なるものです。「第一義」も「義の人」も堪え難い程の多義的概念なのです。にもかかわらず、人々はそんな概念を表に出して郷土の偉人を讃えるため、偉人を無知の坩堝に投げ込み、時には辱めることにさえなるのです。

 親鸞と謙信のいずれを「ふるさとの偉人」とするかと問われれば、上越市妙高市では越後で生まれた英雄に一票を投じる人が圧倒的に多い筈です。そのふるさとの英雄について、上越市のホームページの説明を引用すると、「義は、人間の行動・思想・道徳で「よい」、「ただしい」とされる概念で、謙信公は、義を重んじた武将とされています。謙信公の居城、春日山城麓の林泉寺には、謙信公自筆と伝えられる「第一義」の額が残されています。「第一義」は、禅の書跡『碧巌録』の達磨太子と梁(中国)の武帝との問答の逸話に出てくる語句で、釈迦のあらゆる事物の心理を表すとされており、この語句は謙信公の思想と人となりを如実に表したものとして広く知られています。」となります(引用文の中の「心理」は「真理」と思われます)。

 『碧巌録』は禅の公案、つまり、禅の問答や問題を集めた有名なテキストです。その『碧巌録』の第一則が達磨廓然無聖(かくねんむしょう)と呼ばれる問答。武帝が達磨に「如何なるか是聖諦(しょうたい)の第一義」(つまり、「仏教の根本的な真理(the first principle)は何か」)と問い、「廓然無聖」(「からっとして何もなし」)と達磨が答えたというエピソードで、これについて僧の間で問答が交わされることになります。仏教の第一原理は廓然無聖というのが達磨の答えですから、武帝でなくてもあ然としてしまいます。

 さて、儒教の中心概念は孔子の「仁」ですが、孟子はそれを仁と義に分けました。義は静的な秩序とその維持を意味し、利己心を克服する気持ちも指していました。上杉謙信の「天下静謐」というスローガンは義の前者の意味の具体的表現と思われます。義は江戸時代以降、義理や義務、正義を意味し、自然の理に適うこと、正しい行いを守ることなどを意味するように変化します。正義と義理が同居したままの江戸時代から、明治に入り、漱石は「人生の第一義(根本的な真理)は道義だ」と捉え、それが多くの人に受け入れられました。現在は「義は正義」と割り切った方がわかりやすいでしょう。正義はハリウッド映画によく登場しますが、私などはロールズの『正義論』(A Theory of Justice)を考えてしまいます。

 では、「義の心」でウクライナを支援するとはどのようなことでしょうか。謙信は川中島合戦で信濃の更級郡八幡宮に捧げた願文では「武田晴信(信玄)はただ国を奪うためだけに信濃の諸士をことごとく滅ぼし、神社や仏塔まで破壊して民衆の悲嘆は何年も続いている」と信玄の信濃侵攻を非難し、「自分に私的な遺恨はないが、信濃を助けるために戦う」と宣言し、これが後に「義の心」と呼ばれるようになります。当時の謙信は守護職の代役程度の身分で、武田は甲斐守護職。この格差を埋めるため、謙信は普遍的な正義を持ち出して武田家に対抗しようとしました。彼は正しい戦争と、そうでない戦争があると考えたのです。ホームページからの引用を続けると、「戦国乱世に人としての正しい心、義の心を掲げた上杉謙信公。雪国上越だからこそ紡ぐことができた共助の精神であり、これからの持続可能な社会において不可欠な心でもあります。」とあり、「義の心でウクライナを支援する」とはどのようなことかが浮かび上がってきます。

 例えば、「日本スキー発祥110年記念 レルヒ少佐と高田の友人たち」(上越市立歴史博物館、令和3年7月10日から9月5日)を思い出してみましょう。レルヒ少佐は1914年(明治44年)から1年あまり高田に滞在し、多くのものを高田に残しました。長岡外史、岡倉一雄、片桐文邦などと多くのつながりが生まれました。そのため、レルヒがオーストリアに帰還し、生活苦に陥った際、高田の友人たちが援助した、とあり、これが共助の精神の具体例だと考えることができます。

 「義の心」の原義では「正義の戦争」を始める、あるいはそれに直接コミットすることが意味され、上越市のホームページでは友人を助ける共助の精神へと変わっています。私たちにとってどのようにウクライナを支援すべきか、義の心以外の心で考えることも必要と思われます。

 ふるさとの英雄上杉謙信が「義の人」、「義の武将」、「義の心をもつ武人」などと言われるとき、私たちは「義」をどのように理解しているのでしょうか。江戸時代の庶民なら「義理人情に厚い人」を思い起こし、武士なら儒学朱子学の「義」を思い描いたのではないでしょうか。また、明治の日本人なら、漱石の「人生の第一義は道義に基づく生活」をイメージした筈です。でも、その「道義」は何を意味するかとなると、後年漱石が「道義上の個人主義」で用いる「道義」と同じ筈なのですが、道義の明解な説明はなされないままになってしまいました。

 では、現代の私たちはどうでしょうか。そこで、再度ヨーロッパ思想に助けを求めてみましょう。「義の人」と好対照なのが「善(Good)の人」です。善の人は良い人、善行の人を意味しています。善はギリシャ時代以来人生の目的であるとされてきました。そして、その後善を実現することが幸福であるという功利主義が近代ヨーロッパで定着しました。一方、義を正義(Justice)と解するなら、正義は明らかに善とは異なっています。誰も幸福と正義は随分と違うと思う筈です。

 そこで、越後に眼を転じるなら、謙信が義の人であり、親鸞が善の人である、と思いつく人が必ずやいる筈です。親鸞もふるさとの偉人だからです。実際、「武の人」と「信の人」と置き換えたくなるのが越後の人々の二人の評価です。それで正義と善の違いに合点がいく訳ではありませんが、違いの一端を感じ取ることはできそうです。戦を通じて正義の実現を目指すのが謙信であり、念仏を唱えることによって成仏するのが善であると説くのが親鸞です。

 大胆に単純化すれば、正しいことを基準に生活を考えるか、幸福を基準に生活を考えるかで、謙信と親鸞はそれぞれの基準に従って、武将と僧侶のあるべき生き方を示したのです。ヨーロッパの倫理の主流は善と幸福にあり、その対抗馬が正義でした。でも、20世紀に改めていずれが基本的なのか問い直したのがロールズの『正義論』だったのです。善と正義のいずれが人生と社会にとってより基本的なのか、二つの間にはどのような関係があるのか、依然として難問として私たちを悩まし続けています。

 「義の人」とは「正義を実現する人」、「善の人」とは「幸福を実現する人」と置き換えるなら、確かに謙信は義の人でしたが、領民たちの幸福を第一に考えたかと言われると躊躇する人が多く、正義が実現すれば、その結果として善が実現すると謙信は考えたのではないでしょうか。親鸞も謙信もヨーロッパの倫理や道徳の思想によって判断などするべきではないのですが、ふるさとの偉人二人を考える上では一定の役割を演じるのではないでしょうか。

 さて、1664年四代藩主上杉綱勝(のりかつ)が世継ぎのないまま急死、断絶の危機を迎えました。吉良義央(よしひさ、よしなか)の長子綱憲(つなのり)が跡継ぎと決まったのですが、15万石に減封されます。その結果、上杉家は会津120万石の八分の一になり、当然ながら藩財政は破綻寸前の状況になりました。それでも米沢藩は家臣を減らさず、リストラしませんでした。米沢藩の財政改革を成し遂げたのが上杉鷹山(ようざん)です。彼は質素倹約、学問の奨励、殖産興業に率先して取り組み、藩復興に当たりました。また、彼は細井平洲を招き、藩校「興譲館」の創設に尽力しました(現米沢興譲館高校)。興譲館の「興譲」は「人に譲る」という利他的な倫理を表していて、「正義」から「興譲」へ、つまり、義から善への変更を読み取ることができるのです。