前回の実無限、可能無限は既にアリストテレスやカントが考察し、それが直観主義にも大きな影響を与えたが、20世紀の大勢は「「完結した無限」が集合であり、「生成途上にある無限」はまだ集合ではない」と考えた。したがって、運動に関しても、完結した運動だけが対象になった。
「要素が集まると集合ができ、集合は要素に分解できる。」
「点が集まると線ができ、線を分割していくと点に到る。」
上の文は似たことを主張している。点や線、そして実数のもつ基本性質は集合概念によって表現し直され、したがって、集合の基本性質から点や線、実数の性質が証明できる。これが意味することは実に大きい。それは、
(1)集合論は古典的世界観を支える数学である、
ことを帰結する。と言うのも、実数を基礎付けるのが集合論であり、その実数によって表現されるのが古典的世界だからである。特に、古典的世界の時空は実数によって表現される。古典的世界観の時空に関するアプリオリな前提は古典力学の時空に関する前提と同じであり、その前提は実数のもつ幾つかの性質そのものである。
(2)いつでも、どこでも対象とその状態が存在し、各状態の物理量の値は決まっている。
対象の性質で重要なのはその性質の内容であって、性質そのものではない。人には体重があり、「体重とはどのような性質か」という問いと「君の体重は何か」という問いは同じではない。君の体重が70kgであることが体重の具体的な内容であり、体重という性質そのものは通常は体重の定義において問題になるに過ぎない。対象の状態を定義するには状態がどのような性質によって構成されているかが問題になるが、対象の状態の内容こそが状態を決めるのに必要となる。状態の内容は位置や速度の具体的な数値で表現される。
運動の連続性は運動変化がもつ特徴である。運動がそこで起こる時間、空間が連続している場合、運動が不連続になるような状況があるだろうか。古典力学は次のような仮定を認めている。
(3)連続する時空の中で対象が不連続に運動することは物理的に不可能である。
運動する対象が不変、つまり、生成消滅しない場合、その対象の運動は不連続ではない。というのも不連続な運動が起きるとすれば、対象は消えたり、現れたりしなければならなくなるからである。無論、数学的に不連続な運動を表す不連続な関数を考えることは数学的には十分有意味なことである。だが、そのような対象は物理世界には存在しない。
古典的世界観を支える(1)、(2)、(3)の前提は日常世界にしっかり浸透している。それを前提にすべき理由より、前提にしないといかに不自然で、非常識的な事態が生じるか考えてみる方がよいだろう。そのように考えた場合、結果があまりに不自然、非常識だという理由から、三つの言明が正当化されたと誤って考えないように注意すべきである。
運動の表現に実数を用いるということ自体が三つの前提を認めることを帰結する。「時間と空間の量子化」という表現は時間や空間を物質の原子論と同じように考えようということを意図しており、正に「時間と空間の原子論」である。すると、すぐに実数が不都合な装置であることがわかる。実数をそのまま使ったのでは原子論の主張と両立しないからである。そこで点ではなく区間で時間や空間の最小単位を考えるといった工夫が必要となってくる。区間を最小の単位にした場合、対象の運動はどのようになるのか、どのようにそれが表現できるのかという二つの異なる問題が出てくる。前者は物理学の問題であり、後者は言語、つまりは数学の問題である。