心の哲学

[科学主義と人文主義
 哲学と科学は全く違ったものと見なされる場合が多い。その理由の一つは人文主義と科学主義の異なる系譜、伝統であろう。二つの異なる神話のいずれが正しいかといった問いは人文主義のもとでは意味をなさない。だが、古典力学と相対論は世界についての異なる見方に過ぎないという主張は物理学では誤りと考えられている。では、心についてはどうか。心は人文主義の伝統と科学主義の知見が拮抗している領域である。心を神話や宗教、あるいは文学を通じて理解することは今まで行われてきた伝統である。と同時に、心を科学的に解明することも現在活発に行われている。哲学の問題を人文主義、科学主義のいずれの立場から考えるかで、その結果は大きく異なってくる。
 哲学の基本的な謎の一つは心をもつ人間が自然の中で占める地位である。何が心的なもの(the mental)をそうでないものから区別するのか、心的なものと心的でないものの間にはどのような関係があるのか、心的なものはそうでないものと根本的に異なるのかといった問いを誰もが何度かはもったはずである。私たちは他の物体と同じように自然の法則に従う対象なのか、それとも特別の対象で自然法則を生み出し、適用する主体なのか。この問いに対するありふれた答えは、私たちは自然の法則に従うと同時にその法則の適用範囲を超えた特徴や性質ももっているというものであろう。身体は自然法則に従うが、心はそうではないというのがデカルト以来の伝統的答えである。そして、この答えは私たちの日常生活で様々な問題に解決を与える指針になってきたが、同時に多くの問題も引き起こしてきた。ここでは心をどのようなものと考えたらよいかを探ってみよう。残念ながら、未だ私たちは心に関する新しい統一的な見解を共有していない。だから、共通の理解に達するための基本的な事柄を検討して見るのがここでの目標である。

[心についての二つの立場]
 心の不思議さを表わす次の二つの推論を考えてみよう。

(1)心は自然の所産である。自然科学は自然を対象にする。したがって、心は自然科学の対象になる。
(2)心は志向的(intentional)ある。つまり、心は何かを表象する。その中には自然についての表象も含まれる。したがって、心は自然科学を対象にする。

それぞれの文を別々に考えた場合、両方ともごく自然に正しいと認められるだろう。(1)では心が進化や発達の結果として、この世界にある対象と考えられている。(2)では何かを考える主体と受け取られている。しかし、二つの文を同時に考え、併記すると、心と自然科学のいずれがいずれの対象なのか迷ってしまう。この迷いこそ世界の中での心の独特の地位を描き出している。(1)と(2)はそれぞれ科学主義と人文主義の心に対する基本的な視点を表している。ここでは(1)の立場から以後の話を展開するつもりである。したがって、この立場では(2)を(1)の立場からどのように説明するか、つまり、どのように(2)を(1)に還元するかが問題となる。

(問)「心は自らを研究対象とする」という主張は上の(1)、(2)とどのような関係にあるのか。追求する主体と追求される対象が同じということはあり得るのか。それが不可能だとすると、自己点検、自己評価はできないことになることも説明せよ。

[心の様々な理解]
 デカルトの考えでは、身体と心は互いに他の助けなしに存在できるという意味で、二つの異なる実体である。そして、心的実体 (心) の心的性質は物理的実体(もの)の物理的性質と因果的な関係をもっている。ところが、ヒュームはデカルトと違って心的実体の存在を否定する。というのも、心的実体に関する印象を私たちはもつことができないからである。私たちは感覚印象、記憶、予期をもつことができるが、自己そのものに対応する観念をもつことはできない。だから、心は実体ではないとヒュームは考えた。このように過去の代表的な哲学者の心についての考えでさえ大きく異なっている。心的な性質は物理的な性質の組み合わせに過ぎないと考える哲学者がいたとすれば、物理的な性質は心的性質の組み合わせに過ぎないと考えた哲学者もいる。(例えば、カントは後者の代表である。)あるいは、ホッブスは推理や判断は計算の一形式であると考えた。身体は計測器として働き、その計測器の状態は外的な世界の出来事を指示する、表示するという記号的な役割をもっている。心は特別の仕方で機能するものであるが、心的なものはすべて物理的なものに還元できると彼は考えた。人が違えば、そして時代が異なれば心についての捉え方も異なる。これを信頼できる心についての理論などどこにもないと否定的に受け取る人も、難解な心について人間は実に様々な捉え方をし、心の本性を様々な角度から照らし出してきたと肯定的に受け取る人もいるだろう。いずれにしろ、その結果、心は複雑極まりなく、心についての見解は諸説乱立ということになる。このような混沌とした状況をどのように整理し、道筋をつけたらよいのだろうか。

(問)君自身は「心」と「もの」の区別や、二つの違いについてどのように考えてきたか。

[志向性(Intentionality)とは何か]
 まず、心の特異な扱われ方について述べておこう。心が他の対象と異なるのはその志向性にあると言われてきた。そこで「志向性=何かについての(表象、信念)」の特異性を直観的に理解するために「心の歴史」の多義性を考えてみよう。「心の歴史」に対して次の四つの異なる意味が通常考えられている。

(1) 宇宙や地球の歴史と同じ意味での心の歴史:心の進化-進化生物学、特に進化心理学
(2) 心の発達の歴史:心の発達-発達心理学
(3) 心が何を思い、考えてきたかという心が扱った内容に関する歴史
(4) 心についての考察の歴史、心を私たちはどのように考えてきたかの歴史

これらの4つの意味はいずれも「心の歴史」という言葉で語られてきたものである。ここに「身体の歴史」を代入した場合、どのようになるだろうか。(1)、(2)、(4)は「身体の歴史」に関しても無理なく成立するが、(3)は的外れな表現になる。さらに確認のために、「動植物の歴史」、「日本経済史」といった例も考えてみよう。やはり、(3)はこれらの例に関しても成立しない。したがって、(3)が心についてだけ成立する独特の特徴であり、他にはない意味となるだろう。心が何かについて思い、考えるという特徴は志向性という用語で表されるが、(3)はまさに心の志向的な内容についての歴史である。そこに入る代表的な内容には哲学、科学理論、文学作品、法律、倫理、そして宗教がある。科学史文学史は確かに(3)の内容を扱っている。
 心が志向するものは何か。志向内容は表象か、それとも外部の世界の対象そのものか。あるいは、それらのいずれでもないのか。上の場合、(3)の内容は明らかに心の内側のものではない。科学理論や芸術作品は心の外にある。科学理論は私が知らなくとも図書館の本に書かれているし、ミロのヴィーナスはルーブル美術館にある。
 同じように、何かを知覚する場合、知覚内容は外部世界の対象そのものだというのは私たちの日常的な直観に合っている。しかし、何かを思い出す場合、その何かは外部の世界の対象だと考えにくい。というのも、思い出すものは過去のものであり、今ではこの世界に実在しないからである。確かに過去のものは現在存在しないが、思い出されているのは過去に存在した出来事や対象そのものだと言い張ることはできる。このように考えて、志向の内容は外部世界の対象そのものとする外在主義が出てくる。この自然主義的な外在主義は、しかし、難点を孕んでいる。それは志向の内容が論理、数学、言語に関するものの場合、そして、志向の内容に感覚質(色、匂い、味等)が含まれている場合である。誰も数や論理規則を物理的なものとは考えないだろう。それらはいずれも外部世界にそのまま存在するとは考えられていない。

(問)心について君がもっとも不思議だ、あるいは不可解だと思っていることは何ですか。

(問)「心が志向的なのは心が概念あるいは集合名詞であるための当然の結果に過ぎない」という意見について君の考えを述べなさい。
(ヒント)
 心は概念であり、その外延が「心的」なものの集合ということになる。「心が何かについての表象や信念をもつ」ときの「何かについて」という独特の特徴が心の志向性と呼ばれてきたものだった。心がもつ色々な状態を要素にした集合を「心」と呼んだとすれば、状態は個々の表象や信念であり、それを表現するのに「犬についての表象」。「猫についての信念」といった謂い回しを使うのは言語表現上の慣用に過ぎなく、心の特別な性質を表しているのではない、というのが(問)で述べられている主張である。温度計の状態の集合を温度計の定義にしたとすれば、その状態はすべて何かの温度の表示ということになるが、だからと言って、温度計が志向的だとは誰も言わないだろう。