心身二元論を進化論的にも見る(4)

 映画の世界と現実の世界の間の乖離を考えるなら、夢と現実、犬の世界と猫の世界、天上と地上の世界、そして冥界と顕界といった、似たような乖離が数多く頭に浮かんできます。これらのどれとも質が違うのが心的世界と物理世界です。二つの間に因果関係を考えることは果たしてできるのでしょうか?「犬と猫は話し合えるか」、「夢と現実の間に因果関係があるか」という問いが陳腐だと思う人がいれば、その人は「心と身体は相互作用するか」という問いをそれ以上に陳腐だと思うのではないでしょうか。でも、そのように考える人はまずおらず、心と身体は乖離などしておらず、相互作用していると信じられてきました。

 意識されているもの(感じているもの、表象しているもの、信じているもの、意志しているもの等々)の間での心的因果はある程度意識できるのですが、心身の間での因果関係は直接感じること、意識することができません。ヒュームが述べているように、私たちはそもそも因果関係を知覚できず、心と物理世界の間の因果関係を具体的に想像できません。「感覚知覚できる因果関係」という概念自体が実にあやふやで、因果関係は眼で見るだけでは皆目わからないのです。因果関係は様々な情報を統合することによって特定されるのです。因果関係は物理学の理論とその因果的な解釈に基づいています。そのため、物理学で定義できない「因果性」は無定義のままで、複数の常識的な解釈を許すものになっています。私たちの心(脳)は脳の変化を意識できませんが、それと同じように心身の因果関係も意識できず、解釈するしかないのです。

 物理レベル、生理レベルの因果関係は科学理論と因果性の定義に基づく仮構物です。一方、心的レベルでの意識的な因果関係は心的レベルの論理的、言語的な関係と並んで、主体の思考や行動を理解し、説明するためには不可欠の枠組み、装置となっています。つまり、物理的因果関係が知識に基づく関係、心的因果関係は意識に基づく関係なのです。そのため、通常の心身の因果関係、私たちが自然に受け入れ、当たり前と思って使っている心身の相互作用の背後には、実は誰もよくわかっていないにもかかわらず、複数の因果関係の存在が自明のこととして信じ込まれているのです。これこそがHard Problemであり、「深遠なる謎」と呼ぶべき事柄なのです。なぜ私たちは心身の因果関係を受け入れ、自明のものとして認め、それを社会の中で真理として使ってきたのでしょうか。デカルト心身二元論がそれを自明の真理として促進したことは疑えない事実です。

 デカルトが提唱して以来、二元論的構図は哲学や神学だけでなく、法律や社会制度に適用され、近代社会の構図を構成する重要な考えとなってきました。心身二元論は仮説や仮構のはずなのに、真理であるかのように私たちの生活世界を牛耳ってきました。まさにデカルトの呪縛です。ですから、デカルト風の心身二元論は今でも私たちの常識そのものとして通用しています。しかし、その常識は次第に非常識に変わりつつあります。デカルト的二元論は構成された、人工的な二元論で、しかもとても不完全な二元論です。その二元論の細部は徐々に明らかにされ、その追求は現在でも続いています。どのように人工的に心身の関係を構想し、それを実際の因果過程として実現するかの試みは着実に続行され、それがAIやロボットの研究となっています。その研究と同じように、私たち自身生まれて以来の学習によって心身二元論を身につけ、その結果として心身をコントロールできる行動様式を獲得してきました。心身の関係をコントロールできることが技術の習得、スポーツ競技の優勝、生活のあらゆる場面での知恵に必要不可欠な条件となっています。

 心身二元論がこれほど普及している理由は絶えざる学習に尽きると思われます。幼児以来の学習、社会の伝統、生活習慣等によって、言語と同じように心身二元論は私たちには自明で不可欠の必需品の一つとなっています。言語を学ぶように、私たちは心身二元論を学ぶのです。そして、心身二元論は言語と同じようにほぼ無意識に使うことができる習慣になっているのです。本来なら心身二元論は哲学的な主張であり、疑われて当たり前のものなのですが、自明の習慣と見做されるとすべては変わってきます。物理主義や自然主義が思想であり、反対者が必ず一定数存在するのに対し、習慣は思想と異なり、無意識的に心身二元論を受け入れさせるという魔力をもっています。習慣は私たちの疑問や批判を麻痺させます。意識することなく、自然言語を操るのと同じように、知らず知らずのうちに私たちは心身二元論のもとに生活しているという訳です。

 習慣化した二元論をご破算にして考え直すことは、信じていた宗教を一度捨てて考え直すことに似ていて、想像できないほどに労力のいる仕事です。しかし、それを部分的に行うことはそれほど困難なことではありません。臆病なようですが、私たちにできることは局所的なエポケーです。二元論を部分的に否定し、物理主義や自然主義のもとに捉え直すことが求められているのです。