まずはデカルトの心身二元論を振り返っておきましょう。彼の心身二元論は子供でも簡単にわかる単純な構図になっていて、心的なものと物理的なものの間に因果関係があるという説明は私たちの生活世界の実像を見事に捉えていると思われてきました。心的なものと物理的なものの間の因果関係は自然で疑う余地がなく、心をもつ私たちの思考や行動を説明する当たり前の仕組みとして受け入れられてきました。物心ついた時から私たちは心身の相互関係の存在を正しいものと教えられ、それを使い、それに依存して生活してきました。そのため、言葉を使わないで考えたり、振る舞ったりできないように、心身の相互作用を前提せずに人間や社会のことを考えることはできないと堅く信じ込んできました。
皮肉なことに、デカルトの時代以上に、心身の因果関係を細部にわたって追求するのが現代です。心身の関係に一層敏感になればなるほど、私たちはデカルト的な二元論に支配され続けていることを強く意識するようになるのです。人は心をもち、心で行動を決め、身体を使って行動を実現する、そして行われた行動から、行動の意図や目的を察する、と言うのが私たちの生活の実態となってきました。
でも、少々冷静になって考え始めると、心身の相互作用という考えは、その見かけと違って、これほどわかりにくいものはないことがわかってきます。「意志することが行為を実行する原因である」という謂い回しに不自然な点は何もありません。例えば、殺人事件の解決には犯人の動機が大きな役割を演じます。にもかかわらず、誰も意志や動機から行為に至る因果系列を完全に特定することなどできません。それでもこの謂い回しが誤っているとは思われていません(殺人の動機と殺人の実行の間の連続的な因果系列が特定できなくても、動機は殺人の原因として何ら不都合はないと思われています)。デカルト的な心身二元論が背後でお題目のようにこの考えを後押ししてきたように思われてなりません。細部がわからず、細部を考えれば破綻をきたすことがわかっていても、証拠不十分ではなく、当たり前の真理として受け入れられる心身二元論は、大昔からの心についての宗教的伝統や倫理・道徳に助けられていたとはいえ、現在でも私たちとその社会を実効支配し続けています。法律も経済もその基本には心身二元論が仮定されています。通常は正しいことが保証されている命題が土台に置かれるのが筋なのですが、細部が不明な心身二元論がなぜか土台に置かれて私たちの生活世界が成り立っているのです。これこそ謎の中の謎と言ってもいいのではないでしょうか。そのような謎があっても、心をもつ人の社会での行動が法律や経済の基礎を作っていることに誰も反対しないのです。
これは謎ではないという新しい説を展開する前に、一つ考えておくことがあります。それは、「なぜ私たちはデカルト的な心身二元論に騙されてしまうのか」ということです。