意識と感覚経験

 私たちの周りには色んな性質をもった対象が溢れている。どんな性質があるか、性質の範囲を眺めてみよう。幾つかは机、岩といったものに共通の性質である。サイズ、重さ、形態がそれら共通のものであり、要するに物質的な性質と呼ばれているものである。他のものは動物に特有な、多分人間にこそ特有な性質である。それは、意識、感覚、欲求、信念、痛み、快楽、意図といったものである。心身問題とは、これらまるで異なる二つの性質がどのように一つの対象の中で矛盾なく組み合され、団結することが可能なのか、という問題である。
 デカルトは、二つの性質が単一の対象の中に共存・団結することができない、と考えた。人間は二つの根本的に異なる実体からできている。それら実体は精神的な実体と物質的な実体である。私たちの心的性質は真に最初の実体(=心)の性質で、私たちの物理的な性質は第二の実体(=物質)に属している。人は二つの実体からなる合成的なもの、二つの根本的に異なったものの合金、という考えは二元論と呼ばれ、それがデカルトの主張であった。
心と身体は相互作用をしなければならない。だが、この相互作用があらゆる種類の問題を生み出す。現在人々は実体としての心と身体の関係については気にしない。多くの人が気にかけるのは、心的状態と物理的状態の関係である。その典型的な問いが、「痛みはc線維の発火と同じ状態なのか」といった問いである。同一説はこれにYesと答える。少なくとも、痛みはある脳状態と同一である。だが、二元論者はこれを否定する。同一説の問題は通常次のように表現できる。

1. 少なくとも幾つかの心的状態は性質Mをもつ。
2. どんな純粋に物理的な状態も性質Mはもたない。
3. もしx=yなら、xとyは同じ性質をもつ(ライプニッツの法則)
4. すべての心的状態が物理的状態ということはない。

Mは様々なものであり得る。「心的状態は確実に知られる」、「私的なものである」、「性質を感じる」、「状態の中にあるような何かがある(qualia)」、「それらは生き生きしていて、形もサイズもない」、等々。これらはいずれもMの例となることができる。心的性質と呼ばれるもので、感じたり、意識したり、内観したりできる性質である。
また、すべての物理的状態は性質Pをもつと言うこともできる。そして、この性質Pを使って、ある心的状態は性質Pを欠いていると考えることもできる。この性質Pは物理的性質と呼ばれているもので、質量や運動量のような物理量に代表される性質である。それら性質はいずれも間主観的に知ることができる、物理科学の領域で扱うことができる。
 ジャクソンの同一説反対の論証を違った形で再度述べてみよう。メアリーの思考実験の前提状況を確認してほしい。

1. メアリーは色の溢れる外に出る前に、すべての物理的な事実を知っている。
2. 外に出て、彼女は新しい事実を学ぶ。その事実とは色経験がどのようなものかという知識である。
3. それゆえ、色経験がどのようなものかについての事実は物理的事実ではない。

この論証が正しいとしてみよう。物理的なものは因果的に閉じている。つまり、物理的な結果はみな物理的な原因をもっている。もし痛みが物理的でないなら、私たちをしかめっ面にする痛みの状態はないことになる。痛みの状態にあるためには何か物理的なものが必要である。上の論証をさせたのは色経験をしたからではない。あるいは、色経験は物質的なものに還元できないと主張するのは色経験をしたからではない。たとえ還元できない経験が何もないとしても、上の論証はなされた筈である。これが随伴現象論(Epiphenomenalism)の本質である。上の推論の結論がその主張である。結論3を否定し、1を前提にして、2の否定を帰結すれば、それは同一説となる。
オイディプス王はソポクレスが書いた『オイディプス王』の主人公であり、自分の母親イオカステと結婚し、その真相が明かされると、母イオカステは自ら首を吊って死に、高潔なオイディプス王は、激しい心の苦しみの果てに、みずから両目を突きつぶして、放浪の旅に出る、という悲劇である。オイディプスにとって、イオカステを知ることと母親を知ることが同一であるなら、悲劇など最初から存在しなかっただろう。オイディプスが妻イオカステを知ることと、母イオカステを知ることとは、根本的に異なった知識だと考えることができる。これをヒントに、解決案を考えることができる。例えば、メアリーは白黒の部屋を出る前にすべての物理的な事実を知っていて、

私が熟れたレモンをみると、私はある物理状態Lになる、
ことも含まれている。メアリーが部屋を出て、周りをみると、彼女は次のような新しい事実を学ぶと思われる。

熟れたレモンをみると、私は心的状態Yになる。

ここでYは黄色の経験である。同一論者はどうしてL=Y、新しい事実=古い事実と返答できないのか。メアリーが学んだことは事実を概念化する新しい仕方である。今や彼女はあたかも「内側から」反応を知るのである。これは新しい情報を獲得することではない。せいぜい新しい能力を獲得することである。それは古い情報を他の人が知るのと同じように知る能力である。
事実とそれを知る仕方の間の区別は最初の前提にも関連しているだろう。白黒の部屋に閉じ込められている間の物理的な事実すべてについて知ることからメアリーを妨げているものはないかを知るのは大変困難であると言った。私たちが二つの仕方で知ることができる事実があるとすれば、そのいくつかは片方の仕方でしか知ることができないのかも知れない。恐らく状態Lは、完全に物理的でも、第三者の物理的言い回しで有限の表象をもつことができない。メアリーが近づける唯一の方法は知覚的、内観的なものである。