「心が老いる」と言ったとき、それは身体の老いと同じ意味なのだろうか。脳を含む身体の「老い」については近年よくわかってきている。だが、心の老いについては心が何を指すかわからないなら、わかる筈もない、というのが20世紀までの常識だった。そんなことより、若い時と同じように身体が動かないと実感することは老人なら誰にもできる。老いるとはどのようなことかを老人は日々経験し、体感している。身体も心も変化し、老いていくことを老人たちは長い年月をかけて経験し、知悉している。
にもかかわらず、老人医療の現場で誰もが痛感するのは、精神医学が老いに対して十分強力ではないこと。老いはギリシャ・ローマの時代から人間の関心事だったが、誰もが長生きできるようになった昨今、それまでの議論では収拾できない問題が山盛りなのである。と言えば、聞こえはいいが、長寿者たちの経験が老いの医療に有効に活用されていないということ。老年期は、喪失体験や孤独、現前化する死のなかで、社会的役割や生活環境の変化への適応を余儀なくされるが、その適応が医療や介護に生かされていない。歴史を辿れば、孔子やキケロの著作が浮かんでくる。17世紀の科学革命を契機として「老い」が学問の対象として体系的に研究され、医学の分野でも心理学の発展、臨床医学の誕生とともにケア(看護)の高度化が進んでいった。20世紀に入って、老年医学(Geriatrics)や老年学(Gerontology)が生まれ、進展してきた。
高齢社会の状況を俯瞰すれば、日常的な言葉として使っている高齢社会とは「65才以上の人口が全体の14%を超えた社会(国)」、高齢化社会とは「65才以上の人口が7%を超えた社会」。高齢社会という観点からの日本の特徴は、65才以上の人口が7%から14%へ倍化するのに24年間で到達したのに対し、フランスは114年、スウェーデンは82年かかった。日本は大幅に短かったために高齢社会としての社会資本蓄積が薄い。日本が高齢社会になったのは1994年で、フランスは1979年、スウェーデンは1972年と比較しても、この約20年の時代差が生活水準の著しい変化時期だったため、先進国に比較してより世代間ギャップが広がった。
このような経緯より、ありのままの老いの現実とは何か。まず、老いるに従い、生きる空間が狭くなる。目や耳などの感覚器の衰えや行動の不自由さといった物理的な問題と、「孤立」といった心理的な問題が生まれてくる。次に「残された時間をいかに生きるか」と「いかに死ぬか」という表裏一体の意識葛藤があり、同時に「自分らしく生きること」を望みながら、周りの世話になっているという肩身の狭さとの両立が困難になる。医学的な観点では、一人で多くの病気を抱える(多疾病性)、ちょっとした要因で発病する(多元性)、精神病状を生じやすい(せん病、うつ病、妄想)など老いに特有な状況を正しく理解することが重要となってくる。
こうした老いの現実として挙げられている一つが「喪失感」。人生は喪失の連続。若い世代の喪失は新たな創造のスタートとして転機になることが多く、失ったものに代わるものを手に入れることのできる明日がある。老人にとって喪失するものは歴史が刻み込まれた精神的財産であり、それに変わるものを手に入れることは難しい。老人には過去が現在の拠り所であり、孫の進学や結婚は喪失体験となる。孫は成長するにつれて祖父母から離れて自分の世界を広げていき、祖父母は取り残される。テレビやクーラーのリモコンの操作やラクラクホンの使い方まで、周囲の道具の機能進化とともにその操作は複雑化していく。便利さを享受するために覚えなければいけないことが多すぎ、その結果、老人は迷子になってしまう。
さて、心身の老いを哲学的に考えようなどと傲慢になれば、これまで述べてきたような話を下敷きにどのような切り口で捉えるべきか、といったことを長々と議論する羽目になるのだろう。その結末は言わずもがなのことだが…、少しはコミットしてみると、デカルト風の心身二元論での心の老いと還元主義的な身体的な老いは当然違っていると予想できる。二元論では、脳を含む身体が老化することが心にも伝わり、その結果として心の老化が起こる。あるいは、心の老いが身体に影響して、身体の動きが鈍くなる。つまり、心身の老化が心身の相互作用を通じて起こるということであり、それが私たちの常識的な老化の理解になってきたようである。では、還元主義の場合はどうか。心の老いは身体の老いに還元される。心の老いは身体の老いの結果であり、身体、特に脳の老化を使って心の老いが説明されることになる。
身体の老年学では寿命や劣化の実態が研究される。なぜ老化が必要かにはドーキンスの見事な説明を使うこともできる。彼によれば、私たちの身体はDNAを存続させるための手段、道具に過ぎない。DNAの乗り物が劣化することをカバーするには、古い乗り物を棄て、新しい乗り物に乗り換えることが必要になる。新しい乗り物の獲得は世代交代によってなされる。その結果、身体は劣化するが、遺伝情報は壊されることなく遺伝される。それが正に生殖の意義なのである。私たちの身体だけでなく、実は心もDNAを存続させるための乗り物の一部だと考えることができる。老いた心は世代交代によって無垢な心に置き換えられ、身体と同じように成長していくのである。これは心身二元論的な見方だが、還元主義に従えば、乗り物は身体だけとなる。
人はそれぞれの歴史物語(自分史、自分物語)をもち、日々更新している。日々入力される情報の変化、自らの歴史物語への挿入と更新、歴史物語の編集等が繰り返され、物語が改訂されていく。「心が老いる」ことを哲学的に考えても大した結果は得られなくても、「心が老いる」ことへの対応マニュアルをどれだけうまくつくれるかは重要である。そのためには知識と経験の総動員が不可欠で、それこそビッグデータを活用して、オーダーメイドの処方箋をつくることである。実践的な知識は「知恵」と呼ばれてきた。マニュアルはそのような知恵の現代版であるべきである。スマートなマニュアルは個人の選択に任される部分をもち、規則のかたまりではなく、自由な選択と責任が求められるもの。
その選択と責任を老人ならばどのように負うことが適切なのか。老人の権利や義務はもっと柔軟に考えられるべきである。宗教教義がマニュアルという具体的な形式をもっていたことを考慮すれば、老人の医療や介護のマニュアルは宗教的な色合いをもっていて一向に構わないのではないか。