正確な観察と近視眼

 私のような老人は老眼が宿命で、小さなもの、細かいものを見るのが苦手である。年齢と共に世界が違った風に見えるのが生き物のもつ知覚世界の特徴でもあるのだが、その一部を巧みに利用したのが人間であり、その成果が経験科学として実現されてきた。正確に見つめることは観察だけでなく、実証的なデータ収集までも含め、自然現象を生み出す仕組みの考案までもカバーするようになり、自然を知る、理解する、さらには操ることまで可能になった。

 だが、細部を見ることは積極的な役割を持つだけでなく、消極的で劣った見方であることも昔から主張されてきた。「近視眼」はそのような語彙の一つで、細部にこだわり、遠く広く鳥瞰することができないことを意味している。つまり、正確な観察眼は近視眼的な行為でもあることなのである。

 さて、老人にとって細部の正確な観察と近視眼的な判断はどのような関係になっているのだろうか。観察と判断は異なる認知行為であり、それゆえ、正確な観察と近視眼的でない判断は両立し、共に実現することが可能であることを忘れてはならない。とはいえ、老人にはどちらも実現できない場合が次第に増え、ついにはほぼすべての対象について正確な観察と俯瞰的な判断ができなくなってしまう。それが「老い」ということなだと達観しても、それさえが老人ゆえの観察と判断の結果なのだと疑ってしまうのである。

 画像のようなブレた像を写真家が嫌う一方で、老人の眼にはブレているとしか見えない知覚像の方が本物だと信じるのは決して老人だけに限られないはずだと思いながら、老人の健全な知覚像は正確な観察とも近視眼的な判断とも違った独自のものと主張したいのは私だけではないはずである。

とはいえ、それは老眼の健全性を主張する我田引水に過ぎないと一笑に付されること間違いない。確かに、「健全な老眼」とは形容矛盾で、自己撞着した表現なのであり、健全な老眼は市民権が与えられていないようである。

*画像のキアゲハやハチとヒメカメノコテントウとを見比べた場合、正確な画像はいずれだろうか。

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