後期高齢者の正義と善

 今や私は「古希(稀)」を遥かに越えて、堂々の後期高齢者。唐の詩人杜甫は「酒債は尋常行く処に有り 人生七十古来稀なり」と詠みました。時代は8世紀の唐の時代。日本では奈良時代にあたり、平均寿命は30歳を越えたほどだったと思われます。当時70歳まで生きる人は稀でした。着るものを質に入れてまで飲み歩き、毎日酔っ払って帰る、酒代のツケもいたるところにあった杜甫は人生70年も生きるなんて稀なりと詠みました。でも、今の日本ではさしずめ「人生七十今や常なり」としなければ嘘になる長寿社会です。

 さて、その長生きはどのように捉えられているのでしょうか。医者や看護師は長生きが使命の仕事であり、その実現は職業上の正義だと考えるのが普通でしょう。また、普通の人は長生きが良いこと、つまり善であると考えます。医術は長生きを目標にして、その実現を正義と見做します。人は長生きを善と見做し、長生きを祝います。ここには似ていても正義と善との違いがはっきり見て取れます。

 倫理より明確な法律は正しいことを原理において、守るべきことが列挙されます。では、正義と善の違いは何でしょうか。それを医者と長生き老人の違いと考えることができます。医者は長生きという正義を実現しようとしますが、長生き老人は長生きが善か否かと疑いをもつことができます。ですから、次の命題について二人は異なる意見をもつことになります。

(*)長く生きることが時には不幸をもたらすから、その場合には長生きは悪である。

 医者はいかなる場合でも長生きの実現を目指すことが大原則で、それが稀に「生命の質」の優先を許すことがあるとしても、原則に変更はありません。一方、長生き老人は上の命題にさもありなんと賛成します。この違いが正義と善の違いという訳です。

 「仇討ちは正義であり、密通は不義である」ことが忠臣蔵四谷怪談の組み合わせのメッセージで、江戸の町民には大いに受けたのですが、「長命は正義であり、短命は不義である」ことは受け入れられないメッセージです。救急隊員には人命救助は正義ですが、一般人には善でしかありません。ですから、「長命は善であり、短命は悪である」がせいぜい主張できることなのです。では、動物愛護や自然保護はどうでしょうか。それらは正義なのか、それとも善なのか。一部は正義、残りの大半は善というのが現状でしょう。

 こんな雑念が誕生日に浮かんでは消え、消えては浮かぶようでは不良後期高齢者としか言いようがないのですが…