好奇心と欲望

 ノーベル賞受賞が決まった真鍋淑郎氏が好奇心こそ科学研究の核心にあると述べておられたのが印象的でしたが、好奇心も食欲や性欲に似て欲望であることに違いはありません。奇妙なことに好奇心を欲望とは思わない人が多いようです。食欲も性欲も正真正銘の欲望ですが、それと似て何かを知りたいという好奇心もやはり欲望です。性的な事柄を知りたいという思春期の好奇心は性的欲望です。

 とはいえ、「好奇心」が使われる文脈は「何かを知りたい」と思い、苦労して「知る」ことを成功させ、その結果が「知識」として結実する、という一連の流れになっていて、好奇心は欲望とは関係がないように見えます。でも、知的な欲求が好奇心によってスタートし、その結果が知識獲得となる訳ですから、欲望、欲求が行為の出発点にある点で何ら違いはないのです。

 つまり、欲求は「何かを欲する」ことから始まり、その何かを「実現する、自分のものにする」ことに成功し、成果が得られることになっています。ですから、好奇心と欲求の間にある差異は一般的と特殊的という区別に過ぎないのです。換言すれば、科学的な好奇心と経済的な欲望の構造は基本的に同じなのです。

 ここには人の本性が見事に表れています。ニュートンによる科学革命以後の世界には科学的な好奇心が不可欠でした。そして、それが必要なことは人の欲望の本質を見事に表しています。というのも、好奇心はしばしば悪事を働くのです。好奇心が生み出す悪と善は込み入っていて、結局好奇心は悪だというのが宗教的な諦念にもなってきました。どんな欲望も断ち切ることが宗教の一般的な対応であり、好奇心もその例外ではありませんでした。好奇心を抑えることによって欲望を押さえることが宗教的な一般的対応となってきました。それゆえ、好奇心を含めて、どのような欲望も禁欲することが規範になってきたのです。

 好奇心を捨て去り、諦念の世界で生きるのも一つの対処の仕方であり、それもまた人の本性の一つです。でも、科学は好奇心を捨て去ったのでは成り立ちません。科学は好奇心に執着します。そしてその点が宗教と全く異なる点です。しかし、科学的な好奇心は盲目です。好奇心が成就、実現する結果を知りません。どのように好奇心が働くと望ましい結果が実現するのかは全く予測ができず、それゆえ、好奇心は知的に盲目なのです。そのため、「好奇心の結末は何か」についてさらなる好奇心に火がつくのです。