無邪気な好奇心と賢い好奇心

  人間は子供も大人も残忍で、殺人さえ日常生活では珍しいことではなく、まして戦争では殺人が普通の行為だと思われています。学校で起きているのはいじめや学級崩壊だけではなく、飼っていたウサギを皆殺しにした小学生がいたり、自分の親に毒を盛り、親の反応を冷静に観察した中学生がいたり、計画的に同級生の首をナイフで切り、殺してしまった女の子がいたりと、実に様々です。

 このような「行為障害」をもつ子供が増えていますが、脳の成長と行為障害は強く関連しています。2、3歳になると人の脳には人格の兆しが現れ、その人の個性、人柄、自我が芽生えてきます。その頃の子供は自我を認めてもらいたいという希望が強くなり、その希望が叶えられないと、いろいろな行動をとって訴えるようになります。それでも認められないと行動はエスカレートし、嘘をつく、人といさかいを起こす、物を盗む、物を壊す、自分より弱いものをいじめる、といった行為が現れます。人格は9歳までに完成し、その後あまり変わりません。子供の頃の「自分は認められない」という感覚は、成人しても持続し、ストレス性の疾患、人格障害、不安障害、薬物中毒等の精神的な問題がしばしば起こります。

 子供は素直で、純粋である、子供は好奇心をもつ、子供は執着する、子供は限度を知らない、といった性質を組み合わせると、子供は残忍だという結果が出てきます。これは、子供のもつ強い好奇心が残忍な行為を引き起こすことになることを暗示しています。自分の子供時代を思い起こしてみると、残忍な行為の記憶は幾つもあります。大抵はいわゆる「生物虐待」でした。主に動物が犠牲になったのですが、植物も含まれていました。動物への虐待は主に小動物。人は「一寸の虫にも五分の魂」と言いながら、ハエやカを平気で殺します。それを迷うことなく真似るのが子供。トンボの翅を一枚とっても飛べるか、カエルの腹はどれだけ膨れるか、ミミズを切っても死なないか、ヘビは溺れないか等々の問いは大人に問うのではなく、自分で答えを見つけたいのが子供です。いずれも純粋な好奇心です。危険な問いも多く、例えば、犬と猫はいずれが強いか、雄鶏と戦う方法は、ハチの巣を除去する方法は、といったことも子供心を捉えて離しません。動植物の内部構造を知りたいと思うと、大袈裟には解剖が必要で、解剖すればその動植物は死ぬことになります。限度を知らない好奇心は対象を壊すことを厭わないのです。

 純粋な好奇心は倫理を無視しますが、大人の好奇心は倫理を考慮し、一定の規範内に限定されています。子供と大人の好奇心には微妙な違いがあるようです。とはいえ、知りたいという欲望が好奇心であり、それは時には悪魔の好奇心に変わります。子供はmad scientistで、ゴリラとチンパンジーの交配を平気で夢想します。子供のような好奇心をもち、知ることを追求すると、知るために殺すことを厭わないようになります。大人は知るために殺さないのですが、子供にはそれがわかりません。ですから、知ること、それも純粋に知ることだけを追求することは、残忍な知り方につながるのです。

 知るという欲望への節度と倫理がないと、知ることは実に残忍な行為につながることになり得るのです。その節度と倫理は知識に大きく依存しており、知ることのコントロールを知ることが大人の好奇心に含まれ、それが賢い知り方に繋がっているのです。