二分法を振り返る

 「何が自然で、何が人工か」という問いは愚問というより人心を惑わす問いです。「自然」という概念は随分古くからあり、Natureは「自然」でも「本性」でもあります。妙高と違って江東区の自然など人の手が入ったものばかりです。でも、私たちの風景の認識などいい加減で、自然らしく見せられるとすぐに騙されてしまいます。風景や景色を使って私たちを騙す典型的な道具立てが造園。庭造りは自然や宇宙をコピーするだけでなく、それら自体をつくり出し、時には思想まで具体化するという実に老獪な企みです。石庭に魅せられる理由は案外そんなところにあるのではないでしょうか。
 アメリカの国立公園は自然公園であり、人の手が入らないことが原則になっています。でも、日本では住民の生活や観光と国立公園が共存していて、自然保全の原則に違反する場合がしばしば見られます。住民のため、観光客誘致のため、道路、橋、建物等々が国立公園内に建設される場合を何度も経験してきました。
 自然のように見えて実は人工的なものの代表が食べ物。私たちが口にする多くのものは人工的で、人が手を加え、生み出したものです。穀物、野菜、肉類等ほぼすべては人がつくったもの、あるいは管理しているものです。衣食住を敢えて人工的なものに変えてきたのが人類の歴史です。
 「知ること、わかること」は人の本性(Human Nature)ですが、知ったこと、つまり知識は人工的なものとみなされ、人工的な言葉によって表現されています。そして、文化は自然とは対をなす人工的なものと考えられてきました。でも、その人工的な知識をつかって私たちは自然を考え、自然を理解し、自然を保存し、守ろうと行動しています。一方で、好奇心は人の本能で、その好奇心に従って知ることも人の本性、つまり自然的なものであり、知った内容は自然についての客観的な事柄、そしてそれを応用した技術が人工的なものということにもなっています。要は、知識は自然的でも人工的でもあるのです。
 生得的なものを強調したのはデカルト。彼は、アリストテレスが『霊魂論』で述べた経験主義的原則、つまり知覚する対象の表象がなければから人は考えることができないという立場に反対し、心を独立した実体と捉え、心の内に生得的な観念があり、理性の力によって心がこれを取り扱うことができると主張しました。デカルトがこのように考えた背景には、数学や物理学の発展があり、それら知識の源泉が人間の本性である理性だと捉えたからです。デカルトは生得的な理性が信頼できる知識を生み出すと考えたのです。
 これに反対したのがロックとヒューム。彼らは生得観念を否定し、経験論を主張しました。特にヒュームは、人間は知覚入力のみから因果関係を見出すことができないと論じました。この主張への反応として、経験では得られない因果関係などの概念が先天的に存在するはずだという仮説が生れることになります。カントは『純粋理性批判』の中で、人間の心はアプリオリに対象を知ることができると推論しました。カントは、人は生まれたときから全ての対象を時間と空間の中で経験し、生得的なカテゴリーは、心が対象一般を知るための述語と考えました。
 どんな人工物もその原料、材料は自然のものです。生得-獲得、アプリオリ-アポステリオリ、自然-人工、氏-育ち、自然種-人工物等々、様々な二分法はいずれも「あれかこれか」の区別になっています。現在、誰も単純な二分法など信じていません。遺伝と学習は対立する概念ではなく、それら二つの協働関係の解明が行われています。このような解明を通じてかつての二分法を置き換えていこうとしているのが現在です。