全知全能についてのA君の考察

 「神は全知全能だ」とよく聞きます。神も仏も同じ能力をもつなら、この世の常識からは神も仏も区別できなくなります(なぜ)。「栄枯盛衰」と聞くと『平家物語』を思い出しますが、「栄枯」は栄えることと衰えること、また、「盛衰」も繁栄と衰退を意味します。似た意味の熟語を二つ重ねることによって、より強調しているのが「栄枯盛衰」です。「全知全能」も同じような四字熟語です。完全で、欠けることのない知恵と能力を指し、すべてのことを理解し、あらゆることを行うことができる能力が全知全能です。このように説明されると、神は知識と能力において完全ということになるのですが、「すべてを知っている」ことと「なんでもできる」ことが本当に同じことかどうかと疑問をもつ人がいるのではないでしょうか。何でも知っていても、速く走れない子がいることを知っている子には「なんでも知っていても、何でもできる訳ではない」のです。

 そこで、子供のA君は「全知なら、全能であり、全能なら、全知である」、つまり、「全知と全能は論理的に同値である」と考えました。これが実は「栄枯盛衰」についても多分同じように成り立ち、「似た意味の熟語を重ねる」とは「論理的に同値の表現を重ねる」というのがより明確な説明ではないかと結論しました(「栄枯盛衰」はもっと複雑で、栄枯と盛衰の間に論理的同値が成り立つかどうかは不明というのがA君の推測)。では、「全知」と「全能」がどのような理由から同値だとA君は結論したのでしょうか。

 「何でも知っている」神は人間とは違って、何でも完全に知っています。神は完全に知っていますから、予測する、思い出すといったことはなく、過去も、現在も、未来も同じように知っています。ですから、何でもできることも完全に知っているのです。つまり、知ることと行うこと、行わないことが一致しているのです。それゆえ、完全に知ることは行うことも含意していて、全知なら、全能であることになります。逆に、全能なら、全知であることも同じように導出できます。これがA君の推論で、全知と全能が論理的な反復になっていることになります。

 知ることと在ること、そして行うことが同じことになるというのがA君の推論の意義で、人の知り方と神の知り方の違いを浮き彫りにすることができます。私たちの知り方は全く不完全です。私たちは部分的にしか知ることができず、そこから経験科学による知識は不完全で、常に修正可能であるというのが常識になっています。絶えず修正され続けるのが経験的な知り方の特徴であることが窺えます。つまり、経験科学の知り方は神の知り方とはまるで違うのです。

 私たちが神の知り方を手に入れることができるなら、何かを知りたいという欲求は必要なくなります。知らないので、知りたいと思うのが人の心で、それを私たちは欲求、欲望、あるいは煩悩と呼んできました。特に、「好奇心」という言葉が「わからないものを知りたい」という心理的な欲求を表現しています。不完全にしか知ることができず、少しでも知りたいということが好奇心の存在を説明してくれるのです。

 では、神の好奇心があるかとなれば、何でも知っている訳ですから、好奇心をもつ必要はありません。さらに、欲求一般ということになると、やはり同じような理由から、神には欲望は必要ないことになります。神が私たちに望むことと望んだ結果も神は既に知っているのですから、神が(私たちの自由を許さない限り)私たちに何かを望むということも実はないことになります。

 不完全な私たちが現実の世界で右往左往する状態について神は一体どうしようとするのでしょうか。完全な神は悩むこともなく、私たちを気遣うこともない筈ですから、私たちが救われるということも既に決まっていることになり、神が私たちを救うという欲望もないことになります。

 こうして、神が全知全能であることと私たちの自由がどのような関係にあるのか、これがA君の形而上学的課題ということになります。特に、全知全能と自由が両立するかどうか、これがA君の当面の好奇心のターゲットです。