欲の善し悪し:再訪 

 ブッダの仏教は人間の何に貢献するのか?このような問いをもつこと自体が人間の傲慢な態度の表明だと批判されるかも知れない。というのも、絶対的な神にとっては人間など被造物の一つに過ぎず、その神が人間に貢献するなどということはあり得ないからである。人間こそ神に貢献すべきなのである。だが、ブッダ原始仏教は偏に人間の解脱にその目的がある。神も仏もおらず、そのようなものに頼ることなく、ブッダが考案したマニュアルに従って修行すれば、解脱することができると説くのである。そして、ブッダの修行マニュアルを実行しようとすれば、自ら出家し、小欲と座禅の中で乞食のような生活を実践しなければならないのである。

 生きる限り、欲を棄てることは実に困難で、ほぼ不可能。ブッダの考えは科学的な面をもつと言われる。その科学は好奇心が前提になっており、好奇心という人間の欲望がなければ、科学的な成果など覚束ない。知識は好奇心から生まれるが、それは出家した修行者には原則的に禁止されている。知ることは欲なのである。欲望がなくなれば、解決する問題と、欲望があることによって解決する問題があり、ブッダの仏教はもっぱら前者に焦点が当てられている。つまり、欲望は基本的に悪であり、欲望は善を生み出さないと、ブッダの仏教では考えられている。これはブッダだけでなく、ギリシャ以来の西洋にも色濃く見られる宗教の一般的な特徴でもある。「欲望は善でなく、悪である」という常識は今でも広く流布したままである。仏教に限らず、およそ宗教は人間の欲望や欲情を強く否定する。どんな欲も例外なく悪く、善い欲がないのだとすれば、人は生きていくことなどできなくなる。そんなこと位ブッダなら十分わかっていた筈なのに、人は欲を断ち、時には生きる欲さえ否定する。

 ブッダの仏教は文化も生み出さない。文化は正しく欲望を使った結果である。欲望を否定する宗教は自らが怪しく、危ういものだと認識することに鈍感である。宗教は私たちの欲望を否定し、神に従うことを求める。欲望の行使が罪であり、それは罰せられなければならないという考え方は、過去に多くの悲劇を生んできた。ブッダの仏教は俗人の欲望に対して何も言わない。それには完全に中立で、自らを俗世の外に置いている。文化など無視、政治など無視、伝統など無視、さらには家族さえ無視することによって、最後は解脱に至るということであるから、科学も、芸術も、文化も出家した人には空しいものに過ぎない。ブッダの仏教は強い目的をもった引き籠りの宗教なのかも知れない。

 私には好奇心がある。だから、哲学的な問題に未だに強い関心があるし、絵画も音楽も、そして食事も楽しみたい。当然ながら、日々の衣食住の多くに関心をもっている。そして、多くの人はそれらが人間の心を満たし、幸福をもたらす場合も、反対に不幸にする場合もあることを十分知っている。そして、それこそが人間流の生き方だとすれば、ブッダとその弟子たちの生き方は私たちとは随分違う、異質のものということになる。

 こんなことを考えていると、次のような疑問が沸き起こってくる。生きることは欲であるが、それは善い欲なのか、あるいは悪い欲なのか。生き物にとって答えは明らかで、善い欲。それが悪い欲なら、生き物の自己否定でしかなく、生き物など存在できなかったろう。        

 では、どうしてその善い欲が生存闘争を生み出し、悲劇、不幸、そして死をもたらしているのか。この問いがダーウィンの進化論とキリスト教の対立を生み出してきたものであり、それをよりピュアーで、よりラディカルな仕方で遥か以前に示していたのがブッダの仏教だったのではないのか。その善い欲の否定となれば、生き物にとってそれは死でしかない。生や死を超越することが解脱なのだろうが、それは少なくても生の否定を含んでいる。凡人にはブッダに素直に追随することは無理だが、俗世の凡人の生活の本性を適確に示していることくらいは凡人の私にもわかるのである。