非常識あるいは常識から常識あるいは非常識へ

 伝統的な考えや立場に対する疑問や批判はそれらを否定するための挑戦であり、新しい考えや立場の主張です。通常、前者は常識、後者は非常識と受け取られてきました。非常識が常識を破り、新しい常識になる、そしてその常識がまた覆る、といった変革が何度も起こってきたのが私たちの歴史です。その典型的な例を三つ挙げてみましょう。

1. 無知の知(知の知)
2. 非古典的な物理学(古典物理学
3. 反デカルト的な心身関係(心身二元論

 ソクラテスの叡智としてよく知られている「無知の知」は、「能ある鷹は爪隠す」という格言のように解釈され、知らないことを自覚することこそが知ることの本質だと信じられてきました。当初は非常識な主張と受け取られ、それを述べたソクラテスも随分と非常識だと思われました。しかし、人々は直ぐにプラトンのシナリオを理解し、その後は知恵の本質として常識となりました。皮肉なことに、現在では知るべき教養となっています。
 古典的でない物理学は時間の同時性を否定し、不確定性関係が成り立つと主張し、それまでの物理学の常識を否定しました。物理学の古典的な常識は確定的な関係だけを認める古典力学で、それからみれば量子力学は非常識そのものでした。でも、21世紀の現在は相対性理論量子力学こそが常識となっています。その常識は大学で初めて教えられるせいもあって、残念ながら広く普及した常識にはなっていません。
 心と身体は異なるにも関わらず、切り離すことができないように結びついているというデカルトの考えは、新しい見方として当時の人々を興奮させました。でも、いつの間にかそれが伝統となり、心の存在を否定する試みは人間を否定するかのような印象を人々に与えてきました。デカルトの二元論に抗することが20世紀以降の姿で、それが今や科学や哲学の世界ではほぼ常識になっています。ところが、多くの人々は「人は心と身体をもち、二つは密接に相互作用している」ことを常識であると信じ続けています。
 このように、常識がいつの間にか非常識になり、非常識が常識になって行きます。それは知識の革命と呼んでもよく、パラダイムシフトと呼ばれて来ました。常識と非常識という呼び方は双方の間に争いが起こることを予想させます。正統と異端、正常と異常、正気と狂気といった類似の対立を考えると、それらもよく似ていて、双方の抗争では暗黙の価値判断が存在している場合がほとんどです。熾烈な抗争の代表例となれば、進化論を挙げるべきでしょう。創造説とダーウィン進化論の覇権争いはまだ燻り続けています。
 どの場合でも大切なことは、どちらがよいかではなく、どちらが正しいかなのです。