常識や良識は科学知識に比べれば信頼できないものだと理系の人なら考える筈だというのが一般の人たちの常識です。でも、生意気な中学生君は理系の人にも実に辛辣で、彼らの多くは文系の人よりずっと保守的だと考えています。そして、理系の人にはデカルト主義者が多く、それゆえ、心身関係については心と身体の存在を認め、心身の間には相互作用があると考えている、というのが生意気な中学生の意見です。実際、デカルトもニュートンも今風には理系の人であり、二人は神を篤く信じていました。
さて、デカルトはヨーロッパの近代を生み出した英雄です。「心と身体は世界の二つの異なる実体であり、それらの間には因果的な相互作用がある」というのがデカルトの心身相互作用論で、この考えが心身関係についての常識、良識として20世紀まで世界を支配してきたといっても過言ではありません。彼の心身二元論のエッセンスを見てみましょう。彼は次のように推論しました。
私(=デカルト)は自分が心をもつことを疑うことができない。
私(=デカルト)は自分が脳をもつことを疑うことができる。
それゆえ、心と脳は別のものである。
でも、これは次の推論と同じ形をしています。
太郎は明けの明星を観察したい。
太郎は金星を観察したくない。
それゆえ、明けの明星と金星は別のものである。
この推論は明らかに誤っています。「太郎は明けの明星を観察する」と「太郎は金星を観察する」は「明けの明星=金星」を、同じように「デカルトは脳をもっている」と「デカルトは心をもっている」は「脳=心」を予想させますが、「…を疑う」、「…をしたい」という心の働きだけによって「明けの明星≠金星」、「脳≠心」が結論されています。
このように見比べると、デカルトの推論は健全でない推論と言わざるを得ません。このような推論を根拠に心身二元論が主張され、それがずっと心身に関する常識として人々を呪縛してきたのだとすれば、それは誤りで、心身二元論こそ非常識だということになります。これが生意気な中学生君の主張です。これほど簡単な話ではないというのは誰もが知っていることですが、心と身体の二元論の根拠はこのような独断に起因することもまた否定できないのです。