次の二つの推論について考えてみよう。デカルト(René Descartes、1596-1650)はフランスの哲学者で、私たちと同じような自意識を初めて意識した近代人。
(1)デカルトは心をもっている。
デカルトのロボットは心をもっていない。
(2)デカルトは自分が心をもつことを疑うことができない。
デカルトは自分が脳をもつことを疑うことができる。
それゆえ、心と脳は同じではない。
(問)推論(1)は文句なく正しいが、推論(2)は正しいだろうか。正しくないことを説明しなさい。
(解答)それが正しくないことは次の類似の推論からわかる。
太郎は2 + 2 = 4を疑うことができない。
太郎は6-2 = 4を疑うことができる。
それゆえ、2 + 2は6-2と同じではない。
明らかに2+2は6-2と同じであるから、この推論の結論は誤っている。
*「自分(デカルト)が心をもつ」と「自分(デカルト)が脳をもつ」の二つの言明に対応しているのが、「2+2=4(2と2をたすと4である)」と「6-2=4(6から2を引くと4である)」の二つの言明である。
では、推論(2)の誤りの理由は何か。最初の推論の前提は事実に関するものであるが、後の二つの推論の前提は事実についての(デカルトの)心的な態度(疑う)からなっており、疑うことから事実に関する結論を出してしまった点にある。つまり、(問)は「思う、考える、疑う」といった心的な働きは心的でない、物的な世界の事柄とは違っていることを無視してしまう例になっている。
そこで、次の(問)は、「デカルトはそれを意識的、意図的に無視したのか、それとも、デカルトは単に誤ったのか」である。
*最後の問いはとても哲学的に見える。無視や誤りであったとしても、彼が近代的な一歩を踏み出したことに変わりはない。デカルトの「Cogito ergo sum」は「私は考える。それゆえ、私は存在する」ということだから、論理的には、私の意識や思考を私が存在するための十分条件、私の実在を私が意識するための必要条件だと主張している。