デカルトの精神と物体

(「疑う」という心的働きを方法として使って確証を手に入れるという)方法的懐疑によって、人間の感覚知覚、思考の中のすべてを、一旦棚上げして、考え直したのがデカルト。そうすることによって「思考する私」、つまり「精神としての私」を抽出し、確立しようとした。その際、疑いの対象となったのは物質。物質はいくらでも疑うことができる、これが方法的懐疑の核心的主張だった。それでも物質の実在は抗しがたい。感覚知覚は外界の事実や対象の存在を伝えているようにみえるし、想像力や情念も志向的で、それゆえ、物質なしには何事も成り立たないように思える。そこでデカルトは、一旦棚上げした物質が実在することについて、改めて考察し、物質が実在するという結論に至る。彼の著作『省察』では神の存在証明だけでなく物質の存在証明もなされている。デカルトは物質についても、あくまでも精神から出発し、精神の対象としての物質の存在を議論するという方法をとっている。彼はあくまでも精神から出発して物質にたどり着く方法を選んでいる。
 デカルトによれば、この世界には精神と物質という二つのものが存在する。そして、精神とは私の「意識」であり、物質とは私の意識の彼岸にある「延長」のことである。これらはともに、私の意識のなかに現れてくるが、その意識の中で、精神は私という存在を基礎づけるものであり、物質は延長という特徴によって、私の意識とは区別される別のものである。
 デカルトはこのように、物質の存在についての予備的考察を行なった上で、その物質の存在証明を詳細に展開する。デカルトは物質の存在証明を、四つの段階を通じて展開する。第一に想像力との関連において、第二に感覚との関連において、第三に心身の実在的区別との関連において、そして最後には、狭義の物質の存在証明である。
 想像することによって、私は意識のなかにいろんなものを現前させるが、想像する私自身はそれとは別の次元にある。この想像力が私からなくなったと仮定した場合、私が私でなくなるだろうか。私から想像力がなくなったとしても、私は私のままである。したがって、想像力は私の存在にとっては、本質をなすものであるとはいえない。それゆえ、想像力は私以外の何者かに依存する。それが恐らく物質である。このことから物質は想像力の働きからその存在が推論される。しかし、このことから主張できるのは、物質の存在が確からしいということだけであり、まだ蓋然的な証明に過ぎない。
 感覚のうちに現れる物質の存在は、私の意志にかかわらないという点において、外部からやってきたと推論するのに十分な根拠を与えているように見える。だが、感覚は時に欺くことがあるので、感覚のみでは物質の存在は完全には証明できない。
 心身の実在的区別は、どうか。方法的懐疑によって明らかになったように、心とは「考える」という実体であった。これに対して物質の本質をなす延長とは、心の存在性格とは明らかに異なっている。このことから、心と物質とは互いに相容れないと推論できる。物質は心とは異なる。それは心とはまったく別の次元で独立した存在であることが可能である。
 デカルトは『省察』の第六で物質の存在証明の総括を行なう。それによれば、私たちは物質の存在を証明するに当っても、やはり自分の思惟から出発する他に方法はないとしながら、物質が私たちの思惟を超えた存在であることを証明しようとする。
 デカルトはあくまでも「私の意識」からスタートし、そこから「考える私」の心の明証性を証明し、それの相関者としての物質の存在を証明しようとした。この議論を通してデカルトが到達したのは、世界には心と物質という異なった存在があるということだった。それらは互いに似たところを持たない。人間は考えるものとしては心の担い手であるが、延長を持った物質としての存在性格も併せ持っている。人間における心の部分と延長の部分とは、とりあえずは互いに交渉することがない別の存在であるが、もちろん人間はそんなに単純なものではなく、心と身体とは時に密接な相互作用を行なうこともある。これが『省察』の結論である。