心身二元論を進化論的にも見る(1)

 心身二元論となれば、誰もが思い起こすのがデカルト心身二元論です。「心と身体は異なる実体であり、両者の間には密接で直接的な相互作用がある」というのが彼の心身二元論の主張で、長い間多くの人には当たり前の事実(?)として受け入れられてきた、いわば常識のようなものです。ですから、人は心と身体の両方をもち、二つの間には密接な相互作用があることを疑うような人は変わり者と看做されてきました。この時の心身の相互作用とは「原因と結果からなる因果作用」のことであり、ある心的状態がある身体状態を引き起こし、また逆にある身体状態がある心的状態を引き起こすというような心身の間の相互の因果的な系列を指しています。そこで問われることになったのは、心的状態と身体的状態の間にある因果関係はどのようなものかということで、長い議論の末、終にはこの問題は解決できそうもないということになり、その結末としてデカルト心身二元論の致命傷と見做されることになりました。そして、この致命傷によって20世紀には彼の二元論は誤った主張に違いないと烙印を押されることになったのです。でも、この結果は哲学や科学の狭い業界の中でのことで、多くの人たちは心身の存在と相互作用を前提にして生活しています。これは同じ業界で神の存在が否定されても、多くの人が神を信じていることによく似ています。

 この伝統的な心身の因果関係自体を別の仕方で見直してみましょう。それは、広義の因果的な関係と呼べないことはありませんが、古典物理学の法則に従うような因果的で、連続的な状態変化の過程ではなく、歴史的な進化過程と呼んでしかるべき過程です。また、私たちが「何かを知る」という認識過程もここに含めることができます。でも、心と身体がどのような因果関係をもつかを知覚レベルで意識することなど覚束なく、たいていの場合その関係は判然とせず、曖昧なままです。そのためか、スポーツ選手は心と身体の関係を訓練、練習を通じて意識化、可感化しようと大変な努力をします。それは心身関係がある程度は学習されるものであることを見事に物語っています。その心身関係に肉薄し、マスターしようとすれば科学的に身体の運動変化を知ることと並んで、意志やその実現に向けての心的な操作に精通するために、適切な訓練や学習をしなければならないと思われています。これは宗教体験を考えれば、一層明白です。釈迦の悟りの追体験としての禅の修行、一心不乱に念仏三昧にふけることなど,その典型例ではないでしょうか。

 心身関係は生物進化の結果として次第にできあがってきたシステムであり、私たちが自らの進化の経緯をほとんど知らないのと同じように、その進化の一部である心身関係についても私たちはほとんど知りません。にもかかわらず、常識は心身の関係を経験的、直観的に知っていると信じ込んできました。進化論は19世紀にやっと理論化され、少しずつ生物進化の具体的な仕組みや過程が判明し出してきました。また、脳神経系がどのようなものかわかり出すのは20世紀に入ってからですが、心的状態の変化と脳状態の変化の間の相関的な変化に関心が高まり、今では膨大な知見が収集されています。

*心身関係を正しく捉えるためには、(1)進化論的、(2)物理的、(3)心理的、そして(4)総合的、重層的に捉える必要があります。