心身二元論を進化論的にも見る(3)

 心身の間にあるとされる因果関係はどのようなものなのでしょうか。心身の関係は歴史的に次第につくられてきた事実であり、リンゴが落体の法則に従うのとは明らかに異なっています。落体の法則それ自体は進化しません。心身関係とは、偶然的に介入(intervene, intervention)した事柄に自然選択が働き、その結果として心身関係が出現し、それが適応(adaptation)として進化し、いつかその生物種が絶滅すると、それと共に心身関係も消滅する、という可変的な関係なのです。つまり、心身関係とその進化は恒常的で、必然的な事実ではなく、偶然的なものを常に含んだ暫定的な規則性をもつ事実に過ぎないのです。ですから、生物種が世界に生まれ、絶滅していくことが進化の要因を組み合わせることによって説明されるのと同じように、心身関係が世界に生まれ、絶滅していくことが進化論の中で事実として説明されることになります。心身の因果関係は進化の結果である、つまり、それは適応であり、従って、心身の因果関係は進化し、変化し続け、絶滅することもあることになります。ですから、地球と落体の間の不変的な関係とはまるで違うのです。

 私たちは心的状態が物理状態に働きかけ、その結果として別の物理状態が生み出されると信じ、その行為の原因として自由意志を考え、それを心のもつ大切な働きだと思っています。私たちは自らの心を使ってものに働きかけ、ものを変え、ものを手に入れることができると思っています。その中には他人に働きかけ、その人の行動、その人の心に影響を与えることも含まれます。心が心に直接働きかけることもありますが、ほとんどの場合、私たちの心はまずものに働きかけます。芸術でさえ、芸術家の心はまずものに働きかけます。絵画や音楽の場合、芸術家はまずものを通じて、作品を生み出し、それが最終的に人々の心に訴えることになります。デカルトの二元論ではない、心がものに働きかけることができる説明が模索されてきました。例えば、心的状態はその下に物理的な脳状態があり、脳状態に付随する(supervene, supervenience)のが心的状態であり、それゆえに心身の間には一定の付随的な相関関係があると考えられてきました。心を心だけで説明するのではなく、心と身体との関係で心を考えることの背景には「経験主義のトラウマ(なんでも経験に翻訳することが至上命令)」と呼ぶべきものが控えています。

 経験主義を前提にして心の振舞いを理解しようとすると、知覚できるデータが不可欠で、直接に経験できない心的状態や心的能力を直接経験できる脳や身体の状態や能力を使って理解しなければなりません。これが経験主義のトラウマです。さらに、この経験主義を20世紀により突き詰め、先鋭化させたものが物理主義や自然主義(physicalism, naturalism)と呼ばれています。物理主義や自然主義を信じるなら、心や精神は(デカルトによれば)物理的でない実体であることから、心を知ることは原理的にできないことになります。これは実に不都合な結論で、それゆえ、心はお化けのようなもので、心的状態が存在したとしても脳という物理的なものの状態に付随する仕方でしか存在できない、ということになります。つまり、冥界の存在は顕界の存在に付随することによってしか存在できないことを意味しています。実体としての心が否定されるのですから、このような結論が当然ということになります。

 さらに、実証主義や確証、検証といった知識の確認に重点を置くことが重視されるようになると、形而上学や哲学の抽象的概念とは異なり、情報、データ、検証、測定、観測といった知識習得の装置や技術が不可欠になり、それが心にも実証的に接するべきであるという態度を醸成することになりました。これは心にとってすこぶる不都合なことです。「眼に見える心」は「丸い三角形」のように形容矛盾だと受け取られてきた長い伝統があります。そのため、見えない心は経験主義の後継者となった実証主義、さらには物理主義や自然主義の中では無意味な形而上学的概念というレッテルを張られることになりました。

 このような状況で、心身相互作用の二元論は、意外にも物理主義や自然主義に合う側面をもっていました。心が身体や脳とは異なる実体という規定は実のところどうでもよいものでした。なぜなら、アリストテレス由来の実体概念は時代遅れで無用な概念であることが言わずもがなのことになっていて、心身の身も実体であると誰も既に信じていなかったからです。それに対して、心と身体が相互作用するなら、具体的にどのような相互作用が認められるのか、これは科学的な問いとして満更でもないものでした。