<三つの批判(2)>

 今日の批判の最初はネーゲルのもので、物理主義に反対する論文「コウモリであるとはどのようなことか(T. Nagel, ‘What is it like to be a bat?’, Philosophical Review, 83, 435-50, 1974.)」において展開されている。
 ネーゲルが物理主義に反対する論証を示したと言うのは正確でないかもしれない。彼の主張は「物理主義がどのようにして真であり得るのか何もわかっていない」と述べる方が正確である。彼によれば、有機体が意識経験をもつという事実は、その有機体であるような何かがあることを意味している。これは経験の主観的性格と呼ばれる。それは単一の観点に結びついている。つまり、意識経験があるところには常にその経験をもつ個体が存在し、その個体はその経験に一意的な関係にある。
 これに対して、物理的な状態は主観的な性格をもっていない。酸素は8の原子番号であるがそれは主体が異なっても同じままである。つまり、物理的状態は客観的である。そうだとすると、意識は物理主義に問題を投げかけることになる。意識は本質的に主観的現象であり、物理世界は客観的現象であるから、私たちはどのようにして意識が物理現象に還元されるか、あるいは関係しているか理解する術をもっていないことになる。純粋に物理的対象、出来事、状態、過程を使ってどのように主観性が説明できるというのか。彼が使った例はコウモリだった。私たちはコウモリが意識経験をもっていることを疑う十分な証拠をもっていない。たとえコウモリに主観的な経験があるとしても、コウモリの意識経験の主観的性格は私たちにはわからない。ソナーを使って空を飛ぶとはどのようなことかは私たちにはわからない。このようなネーゲルの論証は次のように整理できる。

主観的な経験が存在する。
物理主義が正しいなら、主観的経験についての物理的な説明がなければならない。
しかし、すべての主観的経験が本質的に単一の観点に結びついており、したがって、主観的対象の十分な概念はその主観的観点の採用によってしか得ることができない。
客観的な物理理論は主観的観点を採らないので、経験の主観的性格を説明することができない。
経験の主観的性格がどのようにして有機体の物理的な操作の中に実現されるかは謎である。
物理主義は私たちが理解できない立場である。なぜなら、私たちはそれが現在どのように真であるかについて何の考えももっていないからである。

この論証から何が結果として得られるのか。まず、私たちの知識の限界である。他の動物の主観的経験についての事実は私たちには知ることができない。さらに、そのような事実は物理的事実ではない。(したがって、物理的事実と主観的事実は異なることになる。)それゆえ、物理主義的枠組みで扱うことができない事実が存在し、物理主義は誤りということになる。

(問)主観的でない客観的経験とはどのようなものか。

 次の批判はマッギンの物理主義反対の論証で、『意識の問題(C. McGinn, The Problem of Consciousness, Blackwell, 1991.)』において展開されている。マッギンとネーゲルの論証には多くの共通点がある。マックギンは物理主義者である。だが、彼は意識が脳にどんな役割をもつか発見できないと思っている。彼の論証を、すべての出来事は物理的な出来事である、あるいは物理的な出来事によって説明できるという主張であるとするならば、物理主義に反対するというよりそれと両立可能である。彼は次のように議論を展開する。

(1)意識を説明する脳の物理的性質がある。
(2)しかしながら、私たちの心の構造(特に、概念形成能力)はその脳の物理的性質を把握する、理解することができない。
したがって、脳がどのように意識を生み出すか私たちにはわからない。

彼は(1)が正しいか否かより、私たちはそう信じていると述べるだけである。興味あるのは(2)である。脳や意識の研究を続けるなかで、私たちは意識を説明する脳の物理的な性質をどのように確定できるのだろうか。意識を直接に内観によって調べることによってか、あるいは脳を探索することによって見つけるかであろう。しかし、内観は脳や神経機構については何も教えてくれない。したがって、脳を調べるほかなくなる。脳の直接観察によって何がわかるだろうか。脳がもつ、身体の他の部分と同じ特徴、異なる特徴はわかるだろうが、現象的意識の主観的性格はどこにも見出せないだろう。脳の直接観察の結果からそのような性格を間接的に導き出すことはできないだろうか。これもできない。というのも、説明したい主観的性格は理論的前提と観察結果のいずれにも含まれていないからである。脳の理論化(自然化)に意識は含まれていない。脳のある性質が確かに意識を説明する。しかし、私たちが知識を得る基本的なメカニズム(内観、観察、そして理論化)はそれがどんな性質かを言い当てることができない。私たちのもつメカニズムは意識を知るには余りに不十分、不適切である。そのため、意識がどのように生じるかは原理上知ることができない。脳は、それがスマートである以上に複雑なのである。
 私たちは本当に意識について理解することができるのだろうか。私たちの脳は進化の産物であり、したがって、認知に関して限界をもっている。認知に関して完全に適応しているわけではない。ネコやネズミが量子力学を理解できないように、人間は心とものの関係といったものを理解できない。意識は永遠に人間には理解できないものである。これがマッギンの考えである。この悲観論をもとにそこから反自然主義的な立場を取るという方向に彼が進まないのはサールの場合と同じである。
 意識はどこにあるのか。デカルトによれば意識は空間には存在しない。空間に場所を占めるというのは心の存在の様式ではない。したがって、心的状態を認識する仕方は知覚を通じて知る際に使う空間的概念を使って把握することができない。物理学には観察できない対象が多く存在するが、それと同じように心的状態を考えることもできない。原子が肉眼では観察できないことと同じ意味で意識は観察できないのではない。単に観察できないどころか、それを空間的な対象としてどのように考えればよいかさえ私たちは知らないのである。したがって、技術的に知覚できないのではなく、原理的に知覚できないのである。意識が延長をもたないというデカルトの直観は今でも私たちの心的なものについての日常的な概念の核心部分を占めている。意識を理論的に扱う場合に、この意識の特徴は空間的な扱いを拒絶することになる。
 もし意識が空間的でないなら、それはなぜ空間をもつ世界に産まれ出ることができたのか。意識も進化の過程の中で生み出されたものだとしてみよう。すると、それは宇宙の進化、生命の進化と違って、意識でない空間的なものから空間的でない意識への進化であった。これは大変神秘的に見える。これが意識に関する空間問題である。この問題には歴史的に二つの主要な対応の仕方があった。一つは、意識は物質から生まれたという前提を否定することである。意識は物質から独立したものであると考えれば、デカルトの立場、伝統的な二元論になる。他は、意識が非空間的であるという前提を否定することである。意識状態が脳状態でしかないなら、それは古典的な唯物論になる。この二つの立場に対して第三の途が考えられる。それは次のように述べられる。物質的な発現を保ちながら、通常の非空間的な意識概念を否定しないことである。脳の行うことを説明しようとすると、脳は現在の物理科学で認識された空間的な性質だけでは十分ではないので、脳はそれ以上の性質をもっている。この性質は今の科学では捉えることができない。特に、意識の発現に関してはそうである。したがって、意識は現在の科学にとって端的に謎となる。
 心身問題を解決するには少なくとも空間の新しい概念が必要である。空間がどのように構成され、構造化されるかを考えなければならない。これは単に脳生理学の問題ではなく、物理学まで及ぶ問題である。科学の歴史の中での空間概念、日常生活での空間概念は現在の物理学での空間概念とは大きく異なっている。したがって、物理空間は人間の知覚-行動システムに与えられた空間とは大きく異なっているに違いない。 意識はこの世界のどこかに局在してはいないが、この世界の外にあるわけでもない。この意識と空間の特異な関係を記述できるような理論を私たちはもっていない。だが、意識と空間は自然主義的仕方で結びついているはずである。ここに空間問題を解く鍵がある。

(問)意識が空間的でないのはどのような理由からか。