まず「空間」、次に「時間」瞥見

<空間>
 物理空間はこれまで四通りの仕方で研究されてきた。それらを手短にまとめてみよう。

A. 形而上学(Metaphysics):空間とは何か、どのようなものか?
 空間は物理的な対象からは独立して存在する実体である。物理世界から物理的な対象をすべて取り除くと、その後に残るのが空間である。これはニュートンが考えた空間で、彼はそれを「絶対空間」と呼んだ。一方、空間は物理的な対象の間にある関係に過ぎなく、対象がなければ空間もないと考えることもできる。すると、物理世界から物理的な対象をすべて取り除くと、残るものは皆無ということになる。これがライプニッツの主張で、ニュートンの空間と区別して「相対空間」と呼ばれている。絶対空間も相対空間もそれ自体は心や精神と同じように眼で見ることはできない。
B. 認識論(Epistemology):空間について何を、どのように知ることができるのか?
 カントは、空間についての知識は純粋理性に完全に基づいており、その理性によれば空間の幾何学ユークリッド幾何学である、と考えた。それに対して、空間についての知識は完全に経験に基づいており、その経験によれば空間の幾何学は規約的である、と考えたのがポアンカレである。つまり、ポアンカレによれば、ユークリッド幾何学を採用するか、非ユークリッド幾何学を採用するかは規約(convention)の問題なのである。
C. 物理学(Physics):運動理論において空間はどのような役割を演じるのか?
 空間は連続的、一様的、等方的であり、古典力学ではガリレオ変換に対して不変、相対性理論ではローレンツ変換に対して不変である。見えない空間は運動に対して効果を及ぼしていることがわかる。
D. 常識(Fork Science):日常世界で空間をどのように捉え、利用するか?
日常空間は左右、前後、上下をもち、私たちが活動する入れ物、場所となっている。空間は経済的にも文化的にも、そして心理的にも実に大きな影響をもっている。

 物理空間についてもこれだけの異なる見方、捉え方ができ、いずれも現在の私たちの空間概念をつくり上げる基礎となってきた。そのような空間が客観的か主観的かと問われても、認識論では主観的、存在論では客観的となるし、同じ認識論でもニュートンなら客観的、ライプニッツなら主観的と答えたくなる。一方、常識では主観も客観も共に組み込まれ、二つの区別などできないほどに融合している。それゆえ、空間を意識しても、その意識の内容はある時は客観的、別の時は主観的と変わることが容易にできるのである。主観的な空間と客観的な空間は異次元にあるのでも、物理と心理の違いであるのでもなく、複雑にそれぞれの要素を組み込んだ文脈に応じて「主観的」、「客観的」というレッテルを貼られているに過ぎない。
 意識の中の空間が私たちの物理空間によく似ていて、ほぼ同型であることは空間の知覚や絵画の空間表現から知ることができる。物理空間に対して、見える空間、想像される空間(知覚空間、想像空間)は絵画に描かれた空間によって窺い知ることができる。画家の主観的な空間が描いた絵画の空間に投影されているなら、その空間のほとんどは物理空間の模倣や変形である。
 空間について考えると、どうしても時間についても考えたくなる。二つは似ているようでもあり、大いに違っているようでもあり、しかし、いつも対にして議論されてきた。

<時間>
 こんどは余り優等生ではない仕方で、ニュートンアインシュタインの考えを比較してみる。時間も存在論、認識論、物理学、常識に分けて、空間と同じような説明ができるが、それは各自推量しておいてほしい。ニュートンは「絶対時間」を考えた。時間は外界のどんなものにも関係なく均一に流れる。一方、アインシュタインの考えた「相対時間」は伸び縮みし、速度や重力によって進み方が変わる。
 ニュートンによれば、私の周りのすべては私と同じ時刻にある。今あるものはすべて「今」、という時刻にある。私が今乗っている自転車は、「今」という時刻を私と共有している。外の太陽の光は、8分前に太陽を出て、8分間光速で進んできて、「今」、私のところに到着した。実際の観測では、「今」という時刻は、身の回りの全てに共通な「瞬間」である。「今」の中に、過去や未来は混ざっていない。
 アインシュタインの考えた時間は、速度や重力によって時間の進み方が違う、となるが、本当にそんなことが可能かどうか吟味してみよう。エベレスト山頂の時間を考えてみよう。海抜0mの時計にくらべ、100年あたり300分の1秒ほど速く進む。すると、3万年で1秒、3000万年で1000秒の違いがでる。つまり、16分40秒ほどである。このことから、エベレストができてから今日までに、海面と、エベレスト山頂では、20分ほどの違いが出ている。エベレスト山頂は20分未来にあるということになる。すると、ヘリコプターで山頂に飛んだ人は、20分未来に行ったということになる。未来に行けるヘリコプターはタイムマシーンである。
 こんなことはありえない。現在の機械で、20分でも未来に行くことのできる機械は存在しない。現在この瞬間、エベレスト山頂は海面と同じ時刻「今」を共有している、ということができる。決して未来ではない。アインシュタインの考え方は、現実に一致していない。この例では、ニュートンの絶対時間の方が事実に一致している。速度や、重力による時間の変化は「あまりにも小さく、私たちには気がつかない」と反論されるかも知れない。小さな違いは、1時間や、1日くらいでは差は人間には見分けがつかなくても、時間は累積されるから、1000年たてば、計測できるほど時間の差は出てくるはずである。ところが、上に見たように、その時間の差は現実には何一つ現れてはいない。
 アインシュタインによれば、GPSの速度や重力が違えば、時間の進み方がそれぞれに変わる。今、たくさんの人工衛星が、地球上空を飛んでいる、それぞれに、速度も、重力も違うから、それぞれに地球上と、違う時刻である。その人工衛星も、自分の時刻の地球に飛んでいかずに、ちゃんと現在の「今」という時刻の地球上空を飛んでいる。これは、速度も、重力も「今」という時刻を変えることができないという証明になっている。アインシュタインではなく、ニュートンの時刻のほうが現実には一致する。相対性理論を信じる人は、違った時刻の事物が「今」という時刻に同時に存在するという現象を説明する必要がある。そして、それが、エベレスト山頂や、GPS 衛星の時刻にではなく、必ず地球上の地表の「今」の時刻に必ず一致するという理由も説明しなくてはならない。ニュートンの絶対時間なら、何の説明の必要もない。事実と一致するからである。このことから、時間は伸び縮みしないということになる。
 では、アインシュタインは誤っているのか?