<「計算する」ことの意義>
「計算する(compute)」という述語はほぼ誰もが知っていて、実際に私たちは計算することができます。計算するとは、チューリング・マシーンを使うのであれば、左右に限りなく伸ばすことのできるテープの上の一つのマス目に0か1の数字、あるいは空白をつくる操作を繰り返すことによって遂行されます。計算がこれほど単純な動きの集まりに過ぎないと割り切る人は少なくても、「算術(arithmetic)」は理論というより実用的な技、習得すべき技術だと思われてきました。それに対して、「考える、思考する」、「知る」といった述語は人間の誇るべき本性だと受け取られ、それを強調あるいは象徴するかのように「理性」などという概念がつくられ、人間は理性的な動物だと理解(誤解)されてきました。また、「感じる、感覚する」は感覚器官を働かせる動作として、理性とは異なることを強調して「感性」という概念がつくられました。そして、感性は動物ももつが、理性は人間だけがもつという(人間中心的な)博物学的区別はギリシャ以来の伝統的な分類でした。
人工知能(AI)の典型的なモデルは人間。ペットでもいいのですが、私たちの関心は圧倒的に私たち自身にあります。人間と同じように感じ知り、同じように考え判断する機械の仕組みは単純な計算の組み合わせから成り立っています。人工知能には感性、悟性、理性と言った区別は本質的な区別ではなく、それら機能の違いは同じ計算からなっています。
「何かを計算する」という謂い回しは計算にはそぐわないのです。計算自体は盲目的で十分。計算結果が何を計算したか明らかにしてくれます。一方、「何かを知る」という表現の「何か」は不可欠で、単に知ることは無意味に等しいのです。ですから、考える、感じる、意識するといった述語は「志向的だ」と言われてきました。それは考える対象、感じる対象、意識する対象がないと意味不明だからです。あるいは、それが私たちに備えつけられた能力で、外の世界との関わりを保持するための工夫なのだと考えることができなくもないのですが、「計算する」は志向的ではなく、外界を必要としません。
私たちはAIにどう対処すべきか戸惑っています。その理由をかいつまんで言えば、同じものなのに違った説明、理解がなされているからです。「私たちは何なのか」についてのギリシャ以来の説明は迷走だらけでしたが、それでも人間を知りたいという点では一致していました。その結果、人間は心をもち、理性をもち、自由意志をもち、責任と権利をもつもので、単なる機械ではないという考えに強い反対はありませんでした。
AIは機械であり、人間がつくります。そのAIがチューリング・テストをクリアーし、人間と同じように振舞うことができます。その基本は計算であり、単純で盲目的な計算がAIを人間並みにしているのです。
さて、ここからが哲学的な思索。「計算する」というのは一体どのような述語なのでしょうか。むろん、それは最終的には数論に帰着するのですが、哲学者は明らかに「計算する」ことをバカにしてきました。カントもヘーゲルも計算に特段の関心を寄せたとは思えません。でも、19世紀末から数学の基礎に関する議論は一変します。フレーゲ、ラッセルらの論理学の研究はゲーデルやチューリングの数学の基礎に関する研究、つまり、計算理論へと結びつくのです。
ゲーデルの不完全性定理や万能チューリングマシーンは「考えることが計算すること」であると説得的に説明するだけでなく、カントのアンチノミーのような推論を数学的に昇華し、人間の合理的思考のシステム(算術を含む論理システム)の不完全性を計算によって証明することになりました。
感じ、考え、決断することは、基本的に計算することです。これがAIという考えの基本中の基本です。これほど明晰にして判明な結論を20世紀になるまで私たちは知りませんでした。人間の本性はかつて合理性に求められたのですが、計算に求めるべきなのです。人間とは計算する生き物なのです。
<推論する際の言語規則と言葉を駆使する際の言語規則>
人が何かをしっかり考えるには、まずその何かがしっかり表現されなければなりません。人が推論する(論証する、証明する)際の言語規則(論理規則)と、言葉を巧みに操って話す(情報を伝達する)際の言語規則(文法規則)とが異なるというのは何とも因果な話です。両方とも同じ規則が使われるならば、人類は果たしてどのようになっていたのか、私の乏しい想像力では皆目わかりません。
とても不思議なことに、考えることと表現することの間にはどうしてもズレがあるようで、それが理由で書き言葉と話し言葉のような違いが生じたと推測するのは自然なことかも知れません。考え、表現し、表現されたものを使って考える、さらにその結果を伝える、…そこで使われるのが同じ規則であれば、どこにもギクシャクしたところはありません。
私たちは言葉を使わないと考えることもできないと思っています。実際、何を考えるにしろ、言葉を一切使わずに考えようとすると、足を使わずに歩けと言われるのに似ています。言葉が思考を明確にする、輪郭を際立たせるには不可欠なのですが、そしてそれは否定できないことなのですが、思考の際の言葉とそれ以外の場合の言葉にずれがあることも同時に否定できないことなのです。このことがここで強調したいことなのです。私たちは言葉を使って考えますが、その言葉は私たちが日常使っている言葉とは異なっているのです。つまり、自然言語は普通に私たちが会話や情報伝達のために使いますが、私たちが推論や思考に際して使うのは第1階の述語論理の言語であり、それは既に説明したように自然言語とは違っているのです。
自然言語は私たちがこの世界で生きるために使う言語です。私たちが生きていく時、時間の経過は極めて重要で、そのために「時制(tense)」が文法の一部として規則化されています。さらに、私たちの欲求や願望を表現し、疑問や謎を表明する必要があります。また、主語として私や他の人格を名指すことができないと、活動主体がわかりません。このような必要性を満たすように出来上がったのが自然言語の文法で、ただ単に純粋に、客観的に、公平に推論し、判断するだけではない、実に多様な役割を持たせられているのが自然言語ということになります。自然言語の文法は私たちが生きるためにもつ武器としての言語の要なのです
形式言語と自然言語はこのような意味で、共通部分を多く持ち、形式言語に人間の様々な都合を付加したのが自然言語となり、それが社会で使われてきました。何が加わり、何が削られ、何が変わったかはそれぞれの自然言語毎に異なりますが、その違いは生物種の違いのようなもので、そこには系統関係のある歴史が見られ、試行錯誤と選択がその歴史を支配しているようです。
言語の本質は何かとなれば、そう簡単に決着はつきません。推論や合理的思考が人間の本性だとすれば、形式言語が人間言語の本質を表しているものと見做されるでしょう。心が意識や欲求をもつことこそ人間の本性だとすれば、自然言語が人間言語の本質に近く、それを使った文学作品は人間言語の本質を表していることになります。
それでは、形式言語を使って感動を引き起こす文学作品を生み出すことはできないのでしょうか。ヒントになるのは、数学は美であるという考えで、随分と昔からあります。数学定理は美そのものであり、それを表現するのは形式言語(数式)です。より現実的になれば、形式言語を日常生活でどのように使えば人々に感動を呼び起こすことができるかを思考実験するだけで十分、と考えたくなります。実際、大袈裟な実験など必要なく、文学作品を生み出す材料である人間の住む世界は因果的で欲望や夢が渦巻く世界で、それらを臨場感ある仕方で表現するには上で述べたような文法規則が必要になるのです。次のそれを少々細かく見てみましょう。
<形式言語と自然言語のとても微妙で、相互依存的な関係>
一方は人が人工的につくった言語で、コンピューターの言語、他方は人間の血の通った自然言語で、歴史も伝統も背負っている言語、こんな風に比較すると二つの言語は互いに相反する言語のように見えてきます。実際、そのように見ている人がほとんどで、とりわけそれを敏感に感じているのは文系の研究者たちです。自然科学や計算機科学と人文科学とを調和させようと、接着剤のような役割を担っている文系の研究者たちは二つの言語がまるで異なるゆえに自分たちこそがインターフェイスの役割を演じるのだとしゃしゃり出てきた時代がありました。それが教養などという概念と結びついて、訳の分からない総合が夢見られたようなのです。自然言語と形式言語の違いばかり強調して、二つが如何に同じものかなど一切無視されたのです。違いを強調して総合しようとしますから、そこから生まれるのは嘘でしかありません。
そこで、二つの言語の入り乱れる様を垣間見てみましょう。数学定理の証明に自然言語がどのような役割を果たすのでしょうか。それに関わる研究者は解法を見出そうと様々なアプローチを試みます。昨日の証明は見事に失敗したが、今日の証明は昨日と違ってうまく行くかもしれない、などと考え、色々試行錯誤するのは形式言語ではできません。時制をもち、状況を描写できるまともな自然言語がないと、このような研究結果への反省や今後の見通しを含んだ事柄について俯瞰できないのです。私たちは計算機械ではなく、常に立ち止まり、反省し、再考し、やり直すのですが、そのような行為を自然に行うことができるのは自然言語をもつおかげなのです。証明だけなら形式言語が断然優れていても、その証明についてあれこれ考え、議論するには自然言語が不可欠なのです。単にこれだけのことのために自然科学と人文科学の接点を探るとか、総合が必要とか、そんな大言壮語は不要なのです。
さて、物語が書けないのが形式言語。私たちの心は物語を通じて世界を理解してきましたし、現在もそうです。物語れないということは、日常生活や研究についての反省ができないことでもあります。時間の経過を表現するには時制や進行形といった文法上の工夫が必要ですが、そのようなものは形式言語にはありません。つまり、形式言語は何かを物語として捉え、語ることができないということになります。
理論ではなくモデルは構造です。理論は形式言語で表現できても、モデルの記述には自然言語が必要になってきます。その構造について考え、言明の真偽の振舞いを確かめようとすると、人は自然言語を使うことになります。モデルは具体的な構造であり、その構造を記述するのは自然言語の方が適しているのです。ですから、数学や物理学でも、理論の場合は形式言語が、モデルの場合は自然言語も併用されることになります。
文系の研究者が学生にコンピューター科学や自然科学の成果についてインターフェイスなどと称して話すことは上述のことに尽きるのです。形式言語の表現と自然言語の表現の役割の違いを具体的な例を通じて話すことであり、結局は自然言語と第1階の述語論理の言語の間の共通点と相違点を丁寧に確認することなのです。そのために必要なのは第1階の述語論理とその言語をしっかり会得すること、そして、それと日本語や英語を見比べる観察眼なのです。その際、過去の教養は不要なのです。
ここまで書き殴ってきたことをまとめてみましょう。言語は理性的な思考にも日常の会話や仕事にも不可欠。私たちは論理的な推論の場合と日常の言語使用の場合とで異なる言語を(無意識のまま気づかずに)使ってきました。それを明瞭にするには随分と時間がかかったのですが、二つの言語の関係も、それぞれの特徴もおよそのことはわかってきました。数学定理の証明や運動方程式を解く際には、私たちは詩や小説を見事に表現できる自然言語を必要としません。それとは逆に、和歌や俳句をつくる際には表現能力が貧弱な形式言語ではなく、無限の表現能力をもつ自然言語を本能的に駆使するのです。
数学以外の経験科学にはその理論が前提とする状況があります。そして、その状況をしっかり表現できる語彙が用意されています。その状況が私たちの日常世界に近づくほど使われる語彙が豊富になり、言語は自然言語に近い様相を呈してきます。事実、生物学は物理学より語彙が豊富ですし、経済学となれば生物学など足元にも及ばないほどの語彙を有しています。科学は貪欲で何でも見境なくその研究対象にします。その好奇心の範囲は自然言語が適用される範囲を優に超えていて、そのため自然言語に登場するどんな語彙も子科学の好奇心の対象になります。ですから、「怨霊」、「私」、「他人」、「UFO」といったものもことごとく対象になるのです。こうして、私たちの生活世界に近い理論になればなるほど、最初から形式言語と自然言語の語彙はオーバーラップしてくるのです。