2物語とシナリオ(Global Story or Local Story?)
(知識、情報を物語化する:人間的な知識=物語としての知識)
誰かが「東京ファースト」と言うと喝采を浴びるが、別の誰かが「アメリカファースト」と叫ぶと、ブーイングの嵐。この違いは一体何なのか。人々の評価はグローバルとローカルに関してかくも異なるもの。一体なぜこのような違いが生まれるのか。東京なら保護主義とは呼ばれず、アメリカだとモンロー主義と非難される。知識は普遍的であることが望ましいが、最近はそれがグローバルと混同される場合が増えた。同じように、特殊で専門的知識と局所的な知識も異なる。「普遍-特殊」という対と「グローバル-ローカル」という対は似て非なるもの。
知識、情報について「普遍的=グローバル」というのが正しいという信念はこの数世紀揺るぎないもの。というより、その信念が真理だと暗黙に前提されてきた。その一方で、民族や地域に応じて異なる知識があったことが忘れられつつある。局所的で、孤立し、分断された概念が、伝統、文化、習慣、常識等には必ず含まれているのだという主張はもはや記憶にしか残っていない。だが、異なる歴史、文化をもつ地域が散在し、互いにわずかな交流しかないという状況がかつての世界のあり方だった。かつての地球には辺境が幾つも存在していた。それは時にはよいこともある筈なのに、いつの間にか一律に弱点、欠点だと見做されるようになり、世界中が同一の基準、製品、文化、暮らし向きをもつことがよいことであり、それを推進することが善だと誤解されている。
では、知識や情報についての民主主義、自由主義、グローバリズムは地域の振興や復興、活性化に対してどのような意味をもっているのか。異なった知恵、コツ、技、身のこなし、生き方などが伝統、文化として、歴史的にそれぞれの地方に独特の仕方で根づいてきた。それは外部の人たちから見れば、内在主義的な知恵、その地域だけに共通する閉鎖的な意識や制度であるから、地域の伝統を守ることは、見方によっては反グローバリズム、反自由主義だと解釈されることになる。
自己中心的な家族主義、民族主義は大概否定的に受け取られ、復興や振興は新知識、新技術を使ってダメージを受けた箇所を治療することだと見做され、知識をどのようにうまく地域に適用するかだけが高く評価され、そのために正確で効率的なコミュニケーションを図る必要があると考えられている。知識や技術の情報化とは地域や心身への知識の適用を最適化することだと信じられている。グローバルなものとローカルなものが相反する様相を呈する場合、世界基準か地域基準かの選択が求められ、疑いなくグローバルなものが優先される。そしてその優先理由は、グローバルなものは普遍的で正しいというとんでもない誤解に基づいているのである。まずは、知識を使うことが知識の物語化なのだという基本的なことをはっきりさせておこう。
(1)
知識を整理していけば最終的に理論にまとめ上げることができる。その理論に文脈をつけてモデル化すると、物語ができる。そこで様々な理論を思い浮かべながら、理論がどのように物語性を獲得できるのか探ってみよう。医学の知識を使って治療することは、医学的知識の物語化の一例である。
まずは、最も物語とは縁遠いと思われている数学。数学理論の例としてユークリッド幾何学を取り上げるなら、そこに登場するのは点や線、面や図形といった一群の対象である。ヒルベルト流の形式主義では数学的対象は単なる記号で構わないのだが、ギリシャ以来点、線、面といった対象として解釈されてきた。「点が集まると線になる」が、その線をつくり出す物理的過程は物語には登場しない。点をどのように並べると線になるのかという実際の細部にはこだわらず、「線を引く」という私たちの行為を信用して、「点から線が生まれる」ことが物語では前提されている。そもそも点とはどんな対象なのかさえ定かではないのである。プラトン的なイデアは極めて曖昧な存在ではあるが、数学的な世界の空想物語には十分な存在。
次は物理学の物語。すべての科学に共通する実証的な実験や観測は因果的でなければ実行できず、それゆえ、実験や観測の手続きは本来因果的あるいは物語的になっている。つまり、実証的=手続き的=因果的=物語的なのである。さて、物理学の肝心の対象は「運動」。運動の原因や結果は運動の一般的な記述とは別に特定の状態(状況)として考えられる場合がほとんどである。そうでない場合は運動法則に言及するだけで説明や予測ができ、因果連関を持ち出す必要はない。どのような個別の状態(状況)として解釈されても、運動法則の一般的適用は同じようになされる。
化学の物語に登場するのは元素。運動と並んで物質の構造の解明に人々は好奇心をもってきた。原子論はギリシャ以来の物質と運動についての優れた理論。原子という不変の粒子の組み合わせによる物質と運動の説明は実に見事な仮説である。だが、それが化学的な原子論仮説になるには18世紀まで待たねばならなかった。「XはYからできている」という謂い回しは「XはYの原因である」という謂い回しと並んで、常識科学(folk science)の基本中の基本にある「物語の核」になっている。
生物学の物語となれば、生命。今は誰も信じていない「生気論」は、生命は他のどのようなものにも還元できない原理であると主張した。その生気論の基本文形となれば、「Xは生きている」という表現。
これら物語に登場する主役たちはいずれも正体不明で、謎に満ちた対象。それらは私たちの知識を生み出し、好奇心を掻き立てるもので、永遠の謎、憧れである。知識はそれら謎の原理を主役とする物語によって生まれ、物語によって脚色され、物語によって修正、変更され、その過程そのものがまた物語になっている。物語の筋は因果的な過程の青写真。主人公と主な登場者がどのように因果変化をするかの叙述が物語になっている。例えば、デカルトの方法的懐疑のシナリオ、それぞれの人のもつ人生という物語は、私たちが何かを考えるだけでなく、疑い、信じ、恨み、苦しむという心理レベルの物語になっている。
信念、そして知識、さらには感情や欲求の内容は本質的に因果的、それゆえ、物語的である。論理や言語は論理的、形式的な規則をもっているが、それは表現レベルの話であり、論理や言語を使って表現される内容は因果的、歴史的、それゆえ物語なのである。情報は物語的で、物語的でない情報は暗号化された情報で、そのままでは理解できない。
これまでの話は科学知識についてのもので、その物語化は素直に行われればグローバルなものになる。だが、グローバルなものとローカルなものの違いは本質的ではなく、文脈づくりに応じて変わるものというのが私の見立てである。知識の理想は普遍性にあり、その特徴がそのままグローバルな物語の一方的な採用につながったというのがここまでの議論からの結論。
(2)
因果性(causation)は人間が太古より変化を捉える際の暗黙の基本原理。神話や物語は因果連関に基づいて構成され、基本原理を具体化したもの。アリストテレスの4原因説は因果的世界観の骨格の要約だが、これは仏教世界でも同じことで、因果性は「縁起」、「空」、「因縁」などと様々に呼ばれてきた。私たちは自分の住む世界を因果的に理解するという習慣をずっと守り続けてきたのである。それは私たちの言葉遣いにも色濃く反映されていて、「ならば」という接続詞は論理的な「ならば」だけでなく、因果的な「ならば」も意味し、兼用されてきた。「因果性」概念を理論から追放した物理学でさえ、その理論を解釈する際には現象変化を因果的に解釈をせざるを得ない。というのも、そうしないことには私たち自身がその理論を使って現象変化を理解できないからである。
因果性は「縁起」と呼ばれ、仏教の根幹を支えている。「縁起の法」は、釈迦の悟りの本質で、「すべては種々の因(直接の原因)や縁(間接の原因)によって生じる」と説く。つまり、すべての事物は、そのもの自体で独立して存在しておらず、原因や条件に依存して、他の事物との関係の中で生起している。世界のすべてのものは、相互依存によって存在し、自分だけで自立的に存在しているものはない。これは考えてみれば当たり前の話で、世界がバラバラで相互に何の関係もない事物からなっているとは誰も考えない。縁起の法は、過去の原因が未来の結果を生むといった時間的な因果関係だけでなく、時間、空間を含むあらゆる現象にかかわる法と解されている。
大乗仏教では「空(くう)」「無自性(むじしょう)」「仮(け)」が強調される。縁起の法に基づいて、「すべてのものは、固定した実体がない=空である」、「すべては無自性で、実体として存在しているのではなく、仮に設定されたもの、現象したものである」という結論が導き出される。日常生活で「現実、現象」と呼んでいるもの、つまり出来事の集まりは縁起の法に基づいている。 私たちの日常世界は、私たちの感覚器官を通して入ってきた情報を脳で処理し、解釈したものにすぎない。それは五感と脳によって情報処理されたものであって、実際に外界に存在しているもの自体ではない。
この意味で、生き物が経験している世界は、それをとらえる生き物の側の、様々な肉体的、精神的な条件によって、作り出される仮象に過ぎない。だから、「現実とは、生き物の数だけ存在する」。つまり、現実とは「観察する主体」と「観察される客体」との相互関係によって現れてくるものに他ならない。 縁起の法は、「すべての事物は相互に依存しあって存在し、独立した実体を有さない」と説き、「私たちが経験している世界の現実は、私たちの心の現れである」という仏教思想の基本になっている。つまり、仏教は正真正銘の観念論。
観念論的世界観は感覚知覚により大きな役割を与え、情報を個人の心に生まれるものとする場合が圧倒的に多いのだが、仏教はそのわかりやすい例である。だが、観念論、唯心論が世界の構造や仕組みについてパラダイムシフトを何度も繰り返し、新たな知識を生み出す仕組みを供給できなかったように、仏教も他の宗教と同じように知識のパラダイムシフトを起こすことはできなかった。それは実証的な追及をしない宗教の限界で、シフトは解釈に限定されている。
(3)擬似科学概念:真偽が浮動する
タイトルは「擬似科学」となっているが、「擬似概念」でも「擬似科学」でもなく、「擬似的な科学概念(pseudo scientific concept)」のこと。擬似科学概念は多岐にわたるが、「個性、種差、生物多様性、外来生物、地球温暖化」などがここで話題になる概念群である。
生物多様性(bio-diversity)は環境省がずっと目玉にしてきた概念だが、その環境省は地球温暖化(global warming)という概念に目標を鞍替えしようとしている。科学概念によく似ていて、一時は科学概念として扱われたことがあったり、今では科学概念としてピントがずれていたりで、科学概念に何かが加わった、あるいは欠けたものと考えるのがいいのだろう。要は、科学概念ではないが、科学概念であるかのように扱われ、使われてきた概念で、社会では純正の科学概念より親しみがあり、よく使われている科学的な装いをもった概念のことである。だから、腹黒く賢い行政はそれら擬似科学概念を使って政策を具体的に推し進めよう、仕切ろうと四苦八苦するのである。擬似的でない、いわば純粋の科学概念はとても地味で、融通の利かない形式的なものだが、擬似科学概念は解釈された、つまり、情報化された概念で、わかりやすい性格をもっている。
擬似科学概念の正体はあやふやで、得体が知れないところがあるのだが、実はこの概念こそ私たちの生活世界を支えている最も重要な代物なのである。政治や経済、倫理や宗教、文化や芸術の領域では擬似科学概念こそが市民権をもった主要概念で、それら領域で議論する人たちはこの擬似科学概念がなければ飯が食えないようなものなのである。戦争も平和も、国家も民族もあらゆる概念は科学的には擬似的なものと言うと、科学概念が如何に幼稚で大人の権謀術策には向かないかの証拠になってしまうが、それが事実そのものなのである。科学世界と生活世界のインターフェイスは擬似科学概念なしには存在しない。「因果性」はそのようなインターフェイスを支える擬似科学概念である。ここまで書いてくると、擬似科学概念は常識概念(folk concept)ではないかと思う人が多いのではないだろうか。重なる部分が多いのだが、二つは異なると考えられるゆえにあえて擬似科学概念という耳慣れない用語を使ったのである。
ギリシャ以来の哲学概念、神学概念はこぞって擬似科学概念であり、大半は科学概念の先駆けとなるものだった。イギリス経験論哲学、ドイツのロマン主義哲学等の哲学理論に登場する概念も典型的な擬似科学概念である。そこから生まれる法学、政治学、そして経済学の概念も擬似科学概念に基づいている。ここで注意しておきたいのは「擬似」と「似非」の違いである。似非概念は誤っていますが擬似概念はそうではない。存在論や認識論の「存在」も「認識」も擬似科学概念である。理性、悟性、感性といった大雑把な区別も擬似的である。
擬似概念は実は本家の科学内にも多い。肝心な点は、科学者が擬似概念がどのようなものか知っているか否かである。実際、職業的な科学者は知っている。だから、彼らは科学概念とメタ科学概念というような区別をしたり、実証的な裏付けがない場合には「仮説」であることを強調する。一方、社会科学者は擬似概念だけで育ってきた人が意外に多く、何が擬似的で何が真正かの区別をしないことがしばしば起こる。それは政治学者と政治家の違いというと分かりやすいだろう。両者とも擬似概念の海で泳いでいることに変わりはないが、政治学者は概念の脆弱性を知悉していて、専門的な議論と評論をしっかり分けるが、政治家は概念をどう使うかに執心し、議論してその勝敗にこだわる。
「個性」は個体の性質だが、今では他の個体との違いが強調され、「自分らしさ」のことと考えられている。これを科学概念として定義する術を私たちは知らない。「生物多様性」も「外来生物」も、そして「地球温暖化」も最近よく聞く概念だが、これらも典型的な擬似科学概念。生物多様性は地域に棲息する生き物のにぎわいのことだが、大変に文脈依存的で「にぎわい」を定義する具体的な術はない。「外来生物」が一見生物学的に見えても、それが法的な概念であることを見抜くのは簡単である。大航海時代以前には外来生物の概念はなかった。だが、これら概念があることによって私たちは環境保全について個性的な議論を展開できるのである。
擬似科学概念はこれまでの私たちの表現では特定の文脈で物語的に解釈された知識であり、明らかに情報として日常生活で活用されている概念である。擬似科学概念のお蔭で私たちは生活上の希望や不満を語ることができ、政治や経済について思う存分議論ができる。科学者は科学概念を巧みに使って記述・説明しようとするが、私たちは擬似科学概念を使って奔放に議論し批判し合うことができるのである。