擬似科学概念

 タイトルは「擬似科学概念」となっていますが、「擬似概念」でも「擬似科学」でもなく、「擬似的な科学概念(pseudo scientific concept)」のことです。擬似科学概念は多岐にわたりますが、「個性、種差、生物多様性外来生物地球温暖化」などがここで話題にしたい概念です。
 生物多様性(bio-diversity)は環境省がずっと目玉にしてきた概念ですが、その環境省地球温暖化(global warming)という概念に目標を鞍替えしようとしています。いずれも科学概念によく似ていて、一時は科学概念として扱われたことがあったり、今では科学概念としてピントがずれていたりで、科学概念に何かが加わった、あるいは欠けたものと考えるのがいいでしょう。要は、科学概念ではないが、科学概念であるかのように扱われ、使われてきた概念で、社会では純正の科学概念より親しみがあり、よく使われている科学的な装いをもった概念が擬似科学概念です。ですから、腹黒く、狡賢い行政はそれら擬似科学概念を使って政策を具体的に推し進めよう、仕切ろうと巧みに立ち振る舞うのです。擬似的でない、いわば純粋の科学概念はとても地味で、融通の利かないものですが、擬似科学概念は派手で、ヤクザな性格をもっています。
 擬似科学概念の正体はあやふやで、得体が知れないところがあるのですが、実はこの概念こそ私たちの生活世界を支えている最も重要な代物なのです。政治や経済、倫理や宗教、文化や芸術の領域では擬似科学概念こそが市民権をもった概念で、それら領域で議論する人たちはこの擬似科学概念がなければ飯が食えないようなものなのです。戦争も平和も、国家も民族もあらゆる概念は科学的には擬似的なものと言うと、科学概念が如何に幼稚で、大人の権謀術策には向かないかの証拠になってしまいますが、それが事実そのものなのです。科学世界と生活世界のインターフェイス擬似科学概念なしには存在しません。「因果性」はそのようなインターフェイスを支える概念の一つなのです。ここまで書いてくると、擬似科学概念は常識概念(folk concept)ではないかと思う人が多いのではないでしょうか。重なる部分が多いのですが、二つは異なると考えられるゆえにあえて擬似科学概念という耳慣れない用語を使ったのです。いずれ二つの違いは詳述したいと思います。
 ギリシャ以来の哲学概念、神学概念はこぞって擬似科学概念であり、大半は科学概念の先駆けとなるものでした。イギリスの経験論哲学、ドイツのロマン主義哲学等の哲学理論に登場する概念も典型的な擬似科学概念です。そこから生まれる法学、政治学、そして経済学の概念も擬似科学概念に基づいています。ここで注意しておきたいのは「擬似」と「似非」の違いです。似非概念は誤っていますが、擬似概念はそうではありません。存在論や認識論の「存在」も「認識」も擬似科学概念です。理性、悟性、感性といった大雑把な認知的な区別も擬似的です。
 擬似概念は実は本家の科学内にも多いのです。肝心な点は、科学者が擬似概念がどのようなものか知っているか否かです。実際、職業的な科学者は知っています。ですから、彼らは科学概念とメタ科学概念というような区別をしたり、実証的な裏付けがない場合には「仮説」であることを強調します。一方、社会科学者は擬似概念だけで育ってきた人が意外に多く、何が擬似的で何が真正かの区別をしないことがしばしば起こります。それは政治学者と政治家の違いというと分かりやすいでしょう。両者とも擬似概念の海で泳いでいることに変わりはありませんが、政治学者は概念の脆弱性を知悉していて、専門的な議論と評論をしっかり分けますが、政治家は概念をどう使うかに執心し、議論する場合にはその勝敗にこだわります。
 個性は個体の性質ですが、今では他の個体との違いが強調され、「自分らしさ」のことと考えられています。これを科学概念として定義する術を私たちは知りません。生物多様性外来生物も、そして地球温暖化も最近よく聞く概念ですが、これらも典型的な擬似科学概念。生物多様性は地域に棲息する生き物のにぎわいのことですが、大変に文脈依存的で「にぎわい」を定義する具体的な術はありません。「外来生物」が一見生物学的に見えても、それが法的な概念であることを見抜くのは簡単です。大航海以前には外来生物の概念はありませんでした。でも、これら概念があることによって私たちは環境保全について個性的な議論を展開できるのです。
 擬似科学概念のお蔭で私たちは生活上の希望や不満を語ることができ、政治や経済について思う存分議論ができます。科学者は科学概念を巧みに使って正確に記述・説明しようとしますが、私たちは擬似科学概念を使って奔放に議論し批判し合うことができるのです。