刹那滅や前後裁断:A君の単純分析(改訂版)

 無数の基本的要素が「縁起」によって因果関係を結び、事象(event)が構成されています。これが仏教の基本理念の「縁起」の教えです。ただし、その事象は一瞬間だけしか存在しません。瞬間的に生起し、消滅します。そして、次の瞬間に同じ構成要素によって新たな因果関係が結ばれて、また生起し、消滅します。そして、それが連続して起こるのです。つまり、持続して存在している事象は、このような瞬間、瞬間の存在が連続して積み重なったもので、瞬間の存在は「刹那滅」(せつなめつ)と呼ばれてきました。

*「各瞬間には前後の順序があり、それが連続して並ぶ」という表現は上記の内容の別表現に見えるが、「連続して並ぶ」という簡単な表現が何を主張しているかは謎のまま。

 これを道元は「前後際断」と呼び、「刹那滅」と同じように、前際(過去)と後際(未来)が断ち切れていると道元は言います。恐らく、私たちが過ごす瞬間は独立していて、独立しているものが連続しているから、ものごとは一連の映画みたいに進行しているということなのでしょう。映画フィルムの各コマが独立しているのに、それを映すと、連続して見えるのと同じです。これがこの世で起こっているとするのが、「刹那滅」であり、「前後際断」です。でも、事象が映画のように「連続して見える」ことと、事象(例えば、運動)が連続していることとは同じなのでしょうか。

**道元の「前後際断」はDedekind(デデキント)の切断(Schnitt)を想起させる。切断はDedekindが考案した数学的な手続きで、実数論の基礎付けに用いられた。

 「刹那滅」も「前後裁断」も仏教の諸行無常を時間的に説明するための概念です。流れる川のように、ものごとは一瞬(刹那)も留まらない、という認識は釈迦以来の仏教全体に共通していますが、この刹那の捉え方、解釈が上座部の有部と経量部で違っていました。有部は時間の最小単位(刹那)が存在すると主張し、経量部は刹那に長さはないと主張します。

 ここで、有部と軽量部の違いをはっきりさせるためにゼノンの有名な「アキレスと亀のパラドクス」を思い出してみましょう。説明するまでもなく、アキレスは亀よりずっと速いのに、永遠に亀に追いつくことができない、というのがゼノンのパラドクスです。ゼノンのパラドクスは、時間が無限に分割できるなら、無限に分割されたものの合計も無限で、そのためにアキレスは永遠に亀に追いつくことはできない、というもの。でも、無限に分割されてしまった時間はユークリッド幾何学の点と同じで、長さを持たず、長さを持たない点をいくら集めても長さは生まれません。有部は時間の最小単位を認めるのに対し、経量部は無いと解釈しました。そこから、空を優先するなら経量部の方が正しく、縁起を優先するなら有部が正しいことになると総括して、議論を止めてしまうのがこれまでの大方の結論なのですが、そうではなく、A君はより基本的なことに注意を向けてみました。

 A君は自然数ではなく、実数を基本に置いてみました。つまり、時間の最小単位を認める自然数ではなく、最小単位を認めない実数の立場をとったのです。「連続する」ことの単純な例は、点が連続的に並び、数直線を作る場合で、それは実数を使って表現されてきました。つまり、反ユークリッドの立場をとったのです。「数直線が連続的である」ことを正確にしようとして「実数の連続性」という公理(議論を始めるための約束)が生まれました. 実数の連続性は、実数の完備性 (completeness of the real numbers) とも言われます。実数全体の集合は三つの公理、四則演算の公理、順序の公理、連続性の公理を満たします。実数の連続性公理は論理的に同値な公理があり、その代表的な公理は六つあり、それぞれDedekindの切断による実数の定義、Weierstrassの公理、有界な単調数列の収束、区間縮小法+アルキメデスの原理、Bolzano–Weierstrassの定理、Cauchyの収束条件+アルキメデスの原理です。すると、多くの人はこれらが高校や大学で習った解析学の基本的事柄だったことを思い出す筈です。さらに、これらに同値な定理として、中間値の定理、最大値の定理、ロルの定理ラグランジュ平均値の定理コーシーの平均値の定理ハイネ・ボレルの定理を思い出す人もいるでしょう。そして、「刹那滅」や「前後裁断」の説明に登場する「連続、連続的」の表現を、実数を使うことによって表現し、ゼノンの運動に対して実数を使って論理的に再構成するなら、「刹那滅」、「前後裁断」から「諸行無常」を運動に関して合理的に説明できることになり、歴史的な論争は随分と見通しが良くなる筈です。

 以上のA君の分析は単純過ぎて、批判必定ですが、A君は「諸行無常」という仏教の基本は実数をつかった運動変化の表現を使うことによって理解できると結論しました。さらに、A君はナーガールジュナ(龍樹)や世親の考えを実数による解釈を援用することで、彼らの主張の幾つかの真偽を判定できると予想しています。

 A君にとって、実数は世界を解釈する装置で、古典物理学の解釈にそっくりで少々つまらなくても、「諸行無常」の無矛盾な解釈を作る主要な表現装置なのです。仏教では「実数とは何か」という哲学的な問いが出てくるでしょうが、A君には「公理系としての実数」で十分で、「実数それ自体」は必要ないのです。実数に求められる最小の性質を定めたのが実数の公理系であり、そこから幾つかの実数のモデルが考えることができるという程度の知識で十分と言うのがA君の考えです。「諸行無常」を理解しようとすれば、自然言語のままでの解釈では埒が明かず、日常的な表現に終始してきたこれまでの解釈は不十分だというのがこれまでのA君の暫定的な結論です。