刹那滅に関する仏教での議論へのメモ

 無数の基本的要素が縁起によって因果関係をつくり、それによって事象が構成されています。でも、その事象は瞬間(刹那)的に生起し、消滅します。次の瞬間に、同じ構成要素によって新たな因果関係が結ばれ、また事象が生起し、消滅します。そして、それが連続します。事象が持続していると判断するのは、このような瞬間、瞬間の存在が連続したものであり、この瞬間が刹那滅と呼ばれます。

 説一切有部は刹那滅の立場に立ちながら、瞬間、瞬間の生起、消滅を過去、現在、未来の位相で捉えました。つまり、生起とは、事象を構成する要素(ダルマ)が未来から現在に現れ出ることであり、消滅は現在から過去へ去ることです。各瞬間に生起、消滅するため、そこには恒常的なものは存在しませんが、事象を構成する要素はこれ以上分割できない極微の単位であることから、それ自体は恒常的に存在すると考えました。

 有部のこの考えを大乗仏教は批判し、対立軸として「空」の思想が生まれます。部派仏教の中にも、有部に対立する考えが経量部で生まれました。有部が過去や未来をも視野に入れるのに対して、経量部は現在だけを問題にします。アウグスティヌスのように、過去に見たものは記憶の問題、未来に見るものは推理の問題として認識から外し、刹那滅を現在に限定します。すべてのものは各瞬間に生起し、消滅します。各瞬間に別のものとして生まれ変わっていく流れとしてとらえ、そこには不変の同一性を保ちながら、持続する本体のようなものはないと考えます。

 世親は大乗仏教に移る前は経量部の立場にあり、その立場から有部の思想を批判し、著したのが『俱舎論』です。その後、彼は大乗仏教に移り、唯識思想を大成するのですが、刹那滅の考え方については経量部の立場をそのまま唯識思想に持ち込んでいます。存在は現在の一瞬だけ、事象の認識は思惟ではなく、一瞬の知覚つまり直感のみとしています。

 これが仏教での自然言語を用いた、日常経験に基づく刹那滅の捉え方の一部です。既述のように、刹那滅に関する仏教での形而上学的議論は私が知る限り、日常表現による言い換えがほぼすべてで、連続する無限の集合の切断の自然言語による議論に尽きるのです。でも、これだけでは解決とはいかず、単に問題を見出したに過ぎません。刹那滅を概念として定義する場合、日常経験を日常の言葉で分析するしかないなら、言語表現の応酬になって、有部と軽量部、空の思想などの意見の違いが生まれます。残念ながら、この真偽を決定する手段はそれぞれの主張の一貫性程度しかなく、裁定しかできないように思われます。

*上記の刹那滅の日常表現による議論は十分ではありませんが、昨日の実数をモデルにした「諸法無我、そして刹那滅の理解のためのメモ」も参考にしてください。