ユークリッド幾何学には多くの暗黙の前提が使われています。それらを明確にする試みがヒルベルトによってなされました(Hilbert, D.(1899)Grundlagen der Geometrie(『幾何学の基礎』寺坂英孝・大西正男訳・解説、共立出版、1970)。ヒルベルトの公理系には基本的な公理の他に、アルキメデスの公理とデデキントの公理の二つが採用されています。
直線が完備である、つまり、ギャップがない(連続している)というのがデデキントの公理ですが、これは実数の連続性(continuity of real numbers)とも呼ばれ、実数の集合がもつ性質です。実数の連続性は実数の完備性(completeness of the real numbers)のことです。そして、デデキントの公理、あるいは実数の連続性(完備性)の公理は「実数を空でない集合AとBに分割し、すべての実数はAかBのどちらかに属し、AとBに共通部分はないとし、Aの元は必ずBのどの元より小さいとすると、(1) Aに最大値があってBに最小値はない、(2)Bに最小値があってAに最大値はない、のいずれかのみが成り立つ。」となります。アルキメデスの公理は「どんな長さも別の長さに比べ、無限に長いことはあり得ない」というもので、これは「任意の二つの線分ABとCDについて、ABのn倍がCDより長くなるようなnが存在する」と同値です。つまり、2つの量aとbについて、bを何倍かすると、いつかはaをこえるというのがアルキメデスの公理。順序概念のある加法群で、a、b>0について、a<nbとなるnがあるとき、アルキメデス的と言われます。これは、nを十分大きくすれば、どんなaよりもnb が大きくなることを意味します。さらに分割が保証されていれば、これはa/n<b、つまりaをn等分すればどんな正の数bよりもa/nが小さくなることを意味しています。
デデキントの公理とアルキメデスの公理を見ると、いずれも実数の持つ性質についての主張です。直線という幾何学的対象について実数を使って特徴づけようとすると、実数の持つ二つの特徴、完備性と順序性をそれぞれ公理化する必要が出てきます。この公理化によって、点と線は「順序よく、隙間なく並んだ点が線となり、それは実数として表現できる」ことになります。こうして、ヒルベルトによるユークリッドの幾何学の公理化は直線を実数として表現することで、実数研究は解析学に結実し、自然の数学化を先導したのです。
数学の哲学の一つがプラトン主義で、点や線といった代表的な数学的対象はイデアであり、イデアは不変で、普遍な本質とみなされてきました。それに対して、ヒルベルトは幾何学の再公理化を通じて「形式主義」を主張し、公理化を通じてイデアを言語化し、それによってモデル化、さらには、今風には「見える化」を目指したのです。イデアの公理化とは「イデアについて言明によって具体的に表現すること」であり、プラトン主義を言明化し、それが形式主義に結実したと考えることができます。そこで、次の問題を考えてみましょう。
(問題)点から線をつくることができるか。また、線を分割していくと、最後は点になるか。
簡単でありながら、実は深遠な哲学的問題の極めつけはこの問題です。この問題はユークリッド幾何学を知っている人には馴染の問題かも知れないのですが、ユークリッド幾何学のエッセンスを見事に突いたもので、幾何学の本性に深く関わっています。二者択一の問いですから、どちらなのかは解答できる筈です。
この問題自体は参考文献を参照しなければわからないといったものではありません。にもかかわらず、YesかNoかの解答とその理由は次のように分かれてしまうのです。
[解答1]
点には部分がなく、それゆえサイズがない。サイズのない点をいくら集めてもサイズが生まれる筈がない。点からスタートする限り、サイズの生まれる原因や理由がどこにも見当たらない。だから、「延長のないものから延長は生じない」、「何ものも理由なしに存在しない」といった形而上学の原理に従って、上の各問いについての答えはNoである。
[解答2]
区間[0,1]が0と1の間にある個々の点からできているように、実数の集合は個々の実数を要素に含んでいる。点から線ができ、線は点に分解できる。線は点の集合で、点は線の要素。面や空間についても同様で、それゆえ、上の各問いについての答えはYesである。
*[解答1]の真意は「0をいくら加えても0のままである(0 + 0 +…+ 0 +…= 0)」という命題を思い起こせばわかるでしょう。[解答2]は「サイズのない点を集めるとサイズ(長さ)のある線ができる」ことを納得できるかどうかが鍵となっています。
**小言幸兵衛の立場からは0 + 0 +…+ 0 +…= 0という式は意味をもっていません。というのも、左辺は無限の0を加えているのでしょうが、代数的な演算である加法は有限の項を加えることしかできません。無限の項を加えようとすれば、極限(limit)概念を使わなければなりません。
もっともらしく見える二つの解答を示されると、私たちはいずれの解答が正しいのか、そしていずれが常識的な考えとして認められている解答なのか迷い始めます。二つの正反対の解答を見て、常識が明瞭に理解され、共有されているのではないことを示す証拠だと思う人もいるでしょう。さらに、今の常識より古い常識がまだ残っているからだ、あるいは新しい考え方が侵入したからだと想像する人さえいるでしょう。いずれにしろ、現在の正解は[解答2]です。
私たちの知識の最も根本的な謎は「点、線、面、そして図形」の存在論。このような謎の対象は幾何学に限られた訳ではありません。「数」も同じように謎の対象。物理世界のどこにも実在しないのですが、数がなくては何もわからず、何もできないのが物理世界です。
さて、仏教では世界を無数の基本的要素が「縁起」によって因果関係を結び、事象(event)が構成されていると考えます。これが「縁起」。ただし、その事象は一瞬間だけしか存在しません。瞬間的に生起し、消滅します。そして、次の瞬間に同じ構成要素によって新たな因果関係が結ばれて、また生起し、消滅します。そして、それが連続して起こるのです。つまり、持続して存在している事象は、このような瞬間、瞬間の存在が連続して積み重なったもので、瞬間の存在は「刹那滅」(せつなめつ)と呼ばれてきました。つまり、各瞬間には前後の順序があり、それが連続して並ぶと捉えるのです。「連続して並ぶ」という表現が何を主張しているかは正に数学の中心課題の一つでした。これを道元は「前後際断」と呼び、「刹那滅」と同じように、前際(過去)と後際(未来)が断ち切れていると言います。恐らく、私たちが過ごす瞬間は独立していて、独立しているものが連続しているから、ものごとは一連の映画のように進行しているということなのでしょう。映画フィルムの各コマは独立しているのに、それを映すと、連続して見えるのと同じです。これがこの世で起こっているとするのが、「刹那滅」であり、「前後際断」です。でも、事象が映画のように「連続して見える」ことと、事象(例えば、運動)が連続していることとは同じなのでしょうか。道元の「前後際断」はデデキントの切断(Schnitt)を想起させます(切断は彼が考案した数学的手続きで、実数論の基礎付けに用いられました)。
「刹那滅」も「前後裁断」も仏教の「諸行無常」を時間的に説明するための概念です。流れる川のように、ものごとは一瞬(刹那)も留まらない、という認識は釈迦以来の仏教全体に共通していますが、この刹那の捉え方、解釈が上座部の有部と経量部で違っていました。有部は時間の最小単位(刹那)があると主張し、経量部は刹那に長さはないと主張します。
有部と軽量部の違いをはっきりさせるためにゼノンの有名な「アキレスと亀のパラドクス」を思い出してみましょう。説明するまでもなく、アキレスは亀よりずっと速いのに、永遠に亀に追いつくことができない、というのがゼノンのパラドクスです。ゼノンのパラドクスは、時間が無限に分割できるなら、無限に分割されたものの合計も無限で、そのためにアキレスは永遠に亀に追いつくことはできない、というもの。でも、無限に分割されてしまった時間はユークリッド幾何学の点と同じで、長さを持たず、長さを持たない点をいくら集めても長さは生まれません。有部は時間の最小単位を認めるのに対し、経量部は無いと解釈しました。そこから、空を優先するなら経量部の方が正しく、縁起を優先するなら有部が正しいことになると総括して、議論を止めてしまうのがこれまでの大方の結論なのですが、そうではなく、A君はより基本的なことに注意を向け、自然数ではなく、実数を基本に置いてみました。つまり、彼はデデキントの公理とアルキメデスの公理をもつ、連続し、順序のある線をモデルにして諸行無常の事象を解釈しようと考えたのです。