実数の連続性から刹那滅まで

 ユークリッド幾何学には多くの暗黙の前提が使われています。それらが19世紀に指摘され、幾何学を改良する試みがヒルベルトによってなされました(Hilbert, D.(1899),Grundlagen der Geometrie(『幾何学の基礎』寺坂英孝・大西正男訳・解説、共立出版、1970))。ヒルベルトの公理系では基本的な公理の他に、アルキメデスの公理とデデキントの公理の二つが採用されています。

 線が完備である、つまり線にはギャップがない(連続している)というのがデデキントの公理ですが、これは実数の連続性(continuity of real numbers)とも呼ばれ、実数がもつ性質です。また、実数の連続性は完備性(completeness of the real numbers)とも呼ばれてきました。デデキントの公理、あるいは実数の完備性(連続性)の公理は次のように表現できます。

 

 実数を、次のように、空でない集合AとBに分割する(切断)。すべての実数はAかBのどちらかに属し、AとBに共通部分はないとする。さらに、Aの元は必ずBのどの元より小さいとする。すると、

 (1) Aに最大値があってBに最小値はない。

 (2) Bに最小値があってAに最大値はない。

のどちらかのみが成り立つ。

 

 アルキメデスの公理は「どんな長さも別の長さに比べ、無限に長いことはあり得ない」というもので、これは「任意の二つの線分ABとCDについて、ABのn倍がCDより長くなるようなnが存在する」と同値である。2つの量aとbがあるとき、bを何倍かすると、いつかはaをこえるというのがアルキメデスの公理。順序概念のある加法群で、a、b>0について、a<nbとなるnがあるとき、アルキメデス的と言われる。これは、nを十分大きくすれば、どんなaよりもnb が大きくなることを意味する。さらに、分割が保証されていれば、これはa/n<b、つまりaをn等分すればどんな正の数bよりもa/nが小さくなることを意味する。

 

 デデキントの公理とアルキメデスの公理を見ると、いずれも実数の持つ性質についての公理であることがわかります。直線という幾何学的対象について実数を使って特徴づけようとすると、実数の持つ二つの特徴、完備性と順序性をそれぞれ公理化する必要が出てきます。この公理化によって、点と線は「順序よく、隙間なく並んだ点が線となり、それは実数として表現できる」ことになります。こうして、ヒルベルトによるユークリッド幾何学の公理化は直線を実数として表現することだったことがわかりますが、その実数の研究は解析学に結実し、自然の数学化を先導することになったのです。

 

 このようなことを知ったA君は刹那滅の考えと比較したくなりました。道元の「前後際断」は「刹那滅」と同じように、事象の前際(過去)と後際(未来)が断ち切ることができるという主張です。恐らく、私たちが過ごす各瞬間は独立していて、独立しているものが連続しているから、ものごとは一連の映画みたいに進行しているということなのでしょう。映画フィルムの各コマが独立しているのに、それを映すと、連続して見えるのと似ています。そして、このようなことが世界で起こっているとするのが、「刹那滅」であり、「前後際断」です。でも、事象が映画のように「連続して見える」ことと、事象(例えば、リンゴの落花運動)が連続していることとは同じなのでしょうか。

*「前後裁断」という用語もあり、意味が同じか否かについても意見が分かれています。

 「前後際断」は『正法眼蔵』の「現成公案(げんじょうこうあん)」の巻にあります。仏教での縁起はすべてがつながりの中にあり、個々のものは独立(際断)していて、それらをつなぐのが「縁」です。A君が想起したのは、道元の「前後際断」はDedekindの切断(Schnitt)に似ていることです。切断はDedekindが考案した数学的な手続きで、実数論の基礎付けに用いられました(上述)。

 「前後際断」は前際(過去)と後際(未来)が断ち切れていること、或いは前後の際(あいだ)が断たれていることで、現在の状況を過去や未来と対比させてみることを否定することです。「現成公案」には、「たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。」とあり、薪(たきぎ)が燃えて灰になるとき、薪が灰に変化したと考えますが、薪は薪という本質において前と後があり、灰は灰という本質において前と後があると述べています。

 「刹那滅」も時間は連続しているのではなく、八ミリフィルムのように一瞬一瞬がこま切れになっていて、これを宮沢賢治は「有機交流電燈」と表現し、人生は連続したものではなく、一コマ一コマの断続したものと捉えました。また、夏目漱石も「倫敦消息」(ロンドン留学中の漱石が友人の正岡子規高浜虚子に宛てた手紙)の中で次のような言葉を残しています。「前後を切断せよ。みだりに過去に執着するなかれ。いたずらに将来に望を属するなかれ。満身の力をこめて現在に働け。」と。さらに、沢庵は木が炭になり、灰に変わることのそれぞれの役割を説きました。木は「過去」、炭は「今」、灰は「未来」を例えているのです。人間も、前際、今、後際という過去の時間軸を生きています。わずかな時間の経過で人は変化します。だからこそ、今に集中してこの瞬間を生きていくのが大事という訳で、いつの間にか人生の教訓に変わってしまっています。

 A君は刹那滅が一瞬の存在を、前後際断が切断の存在を述べていて、時間の経過を実数で表現しようとすれば、数直線上の各実数の存在と数直線の切断が可能であることを述べていると考えました。数直線は点からなっていて、どの点も一つの実数に対応しています。この各点を刹那滅とすれば、前後裁断はどうなるのでしょうか。これがA君の問いです。例えば、実数3の前後の数はどのようになっているのでしょうか。3の直前の数、3の直後の数を私たちは具体的に言うことができるでしょうか。実数は連続していますから、直前、直後の数は存在する筈ですが、私たちはそれを具体的に言うことができません。となると、どこまでが木で、どこからが炭なのか、どこまでが炭で、どこからが灰なのか、明確に際断できなくなってしまいます。これが実数を使って刹那滅や前後際断を解釈した場合の問題点の一つで、それがA君の疑問なのです。A君は刹那滅と前後際断の成り立つ自然なモデルとしての実数は私たちの自然言語と微妙にズレていて、そのズレは簡単には調停できそうもないと感じています。とはいえ、A君は自然言語を同じ自然言語で注釈する従来のやり方も大いに問題があり、得策だとは考えていません。