「前後裁断」、「刹那滅」の実数を使ったA君の解釈

 道元の「前後際断」は「刹那滅」と同じように、事象の前際(過去)と後際(未来)が断ち切ることができるという主張です。恐らく、私たちが過ごす各瞬間は独立していて、独立しているものが連続しているから、ものごとは一連の映画みたいに進行しているということなのでしょう。映画フィルムの各コマが独立しているのに、それを映すと、連続して見えるのと似ています。そして、このようなことが世界で起こっているとするのが、「刹那滅」であり、「前後際断」です。でも、事象が映画のように「連続して見える」ことと、事象(例えば、リンゴの落花運動)が連続していることとは同じなのでしょうか。

 「前後際断」は『正法眼蔵』の「現成公案(げんじょうこうあん)」の巻にあります。仏教での縁起はすべてがつながりの中にあり、個々のものは独立(際断)していて、それらをつなぐのが「縁」です。A君が想起したのは、道元の「前後際断」はDedekindの切断(Schnitt)に似ていることです。切断はDedekindが考案した数学的な手続きで、実数論の基礎付けに用いられました。

 「前後際断」は前際(過去)と後際(未来)が断ち切れていること、或いは前後の際(あいだ)が断たれていることで、現在の状況を過去や未来と対比させてみることを否定することです。「現成公案」には、「たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。」とあり、薪(たきぎ)が燃えて灰になるとき、薪が灰に変化したと考えますが、薪は薪という本質において前と後があり、灰は灰という本質において前と後があると述べています。

 「刹那滅」も時間は連続しているのではなく、八ミリフィルムのように一瞬一瞬がこま切れになっていて、これを宮沢賢治は「有機交流電燈」と表現し、人生は連続したものではなく、一コマ一コマの断続したものと捉えました。また、夏目漱石も「倫敦消息」(ロンドン留学中の漱石が友人の正岡子規高浜虚子に宛てた手紙)の中で次のような言葉を残しています。「前後を切断せよ。みだりに過去に執着するなかれ。いたずらに将来に望を属するなかれ。満身の力をこめて現在に働け。」と。さらに、沢庵は木が炭になり、灰に変わることのそれぞれの役割を説きました。木は「過去」、炭は「今」、灰は「未来」を例えているのです。人間も、前際、今、後際という過去の時間軸を生きています。わずかな時間の経過で人は変化します。だからこそ、今に集中してこの瞬間を生きていくのが大事という訳で、いつの間にか人生の教訓に変わってしまっています。

 A君は刹那滅が一瞬の存在を、前後際断が切断の存在を述べていて、時間の経過を実数で表現しようとすれば、数直線上の各実数の存在と数直線の切断が可能であることを述べていると考えました。数直線は点からなっていて、どの点も一つの実数に対応しています。この各点を刹那滅とすれば、前後裁断はどうなるのでしょうか。これがA君の問いです。例えば、実数3の前後の数はどのようになっているのでしょうか。3の直前の数、3の直後の数を私たちは具体的に言うことができるでしょうか。実数は連続していますから、直前、直後の数は存在する筈ですが、私たちはそれを具体的に言うことができません。となると、どこまでが木で、どこからが炭なのか、どこまでが炭で、どこからが灰なのか、明確に際断できなくなってしまいます。これが実数を使って刹那滅や前後際断を解釈した場合の問題点の一つで、A君の疑問なのです。A君は刹那滅と前後際断の成り立つ自然なモデルとしての実数は私たちの自然言語と微妙にズレていると感じています。