諸法無我、そして刹那滅の理解のためのメモ

 諸行無常、万物流転の他に「世の中のすべてのものごとは、つながりあっていて、個として独立しているものは一つもない」というのが諸法無我で、諸法は涅槃すらも含むあらゆる事象(一切法)を指していて、全てのものは因縁によって生じたものであって実体性がないという意味で、万物流転のこと。

 「1の次の自然数は何か」と問われて、頭を抱える人はいない。小学1年生でさえ「2」と正しく答えることができる。だが、「1の次の実数は何か」と問われると、小学生だけでなく、大人さえ1の次の実数が何か答えることができない。狡賢い大人なら、「1より大きな実数の中で一番小さい実数」だと答えるだろう。その実数が何かを固有名詞を使って、名指して答えることはできないが、「1より大きな実数の中に最小の数が1つだけ存在する」ことが証明でき、それが1の次の実数と等しいことが証明できることから、1の次の実数が存在することになる。

 だが、その存在することが証明された実数に名前をつけようとすると、これが意外にも大変難しい。隣人の名前が不詳なら、その隣人に聞けば済むが、実数の場合はそうはいかない。1の次の実数をaとすると、1+ aの半分は実数でa より小さいことになってしまう。これは矛盾である。つまり、1の次の実数を固有名詞で表現するのは一筋縄ではいかないのである。

 さらに、実数でなく、1の次の有理数でさえ、それを固有名詞で表現することは同様に難しい。その理由は上述の話と似ているが、有限でも途方もなく長い系列はやはり現実には表現が困難なのである。私たちの生活する世界では無限は登場しない。いや、それどころかある程度の長さの有理数しか登場しない。ディジタル式の計算機は無限の長さの数を小数第7位くらいでカットする。だから、実数の四則演算を繰り返すと、とんでもない誤った答えが出てしまう。だが、「無限の長さをもつ実数をaと書くと、…」といった表現を私たちは平気でする。だから、私たちは無限を表現でき、無限を語ることができると安易に思ってしまうのである。

 さて、肝心の1の次の実数だが、それはどんな実数なのだろうか。実数は完備している、つまり、連続している。ところが、自然数も整数も離散的で、連続していない。だから、1の次の自然数は2と答えることができる。連続している実数は川の流れのようで、その流れを切り分けることは仮想的にはできても、実際には不可能。それと同じように、実数直線を切って切り口の数を見つけようとしても実際にはできない。連続しているものを切って、切り口が何かを表現することはとても厄介なのである。

 刹那滅に関する仏教での形而上学的議論は日常表現による言い換えがほぼすべてで、上述の連続する無限の集合の切断の議論に尽きるのである。これで解決とはいかず、単に問題を見出したに過ぎないのである。それゆえ、この問題は数学の基礎に関わる問題として連綿と続いている。