連続性と無限(1)

 「瞬間」の次は、それが集まってできる連続性が主題。運動変化の連続性、つまり、スムーズで途切れることのない、流れるような運動変化はどのような変化なのか。どんなものも連続的に動いていて、瞬間には止まっているように見える。自然の運動変化の基本的な特徴は連続的な変化にある、と人々は思ってきた。だが、この感覚的に明らかな特徴を非感覚的に理解しようとすると、事態は豹変する。運動変化を表象するのに感覚知覚を使わない装置が考案できれば、感覚的でない仕方で運動の連続性を理解できる。この見込みこそ、数学と物理学の関係の基本にあるものである。運動を感覚知覚的に表象するのではなく、数学的に表象することが二つの絆となってきた。運動を適確に表象する装置が幾何学であり、幾何学によって世界を非感覚的に描くというのがその方法だった。

 運動の表象装置としての幾何学は、運動を描くのに不可欠な時間や空間の表象を含んでいた。その表象をさらに数学化するのが「幾何学の解析化」であり、それに伴い「無限」概念が重要な役割をもつようになり、それまで避けられてきた「無限が物理世界に存在するかどうか」といった問いに正面から立ち向かわなければならなくなった。

 連続性の解明は実数の連続性(そして、実数値関数の連続性)として取り上げられ、実数の解明は解析学の基礎として不可欠なものとなった。パルメニデスによれば、実無限と可能無限の区別はなく、二つは同じ無限で、完結した無限だけが意味をもっている。だが、アリストテレスは二つの無限を区別し、実無限の存在を否定する。「数が増えていく、減っていく…」といった変化する数の並びは認識上有効でも、数学的対象として無限を考えた場合、他の確定した数学的概念と自動的に組み合すことができなくなる。その意味で可能無限は曖昧である。可能無限は外延が曖昧な、反パルメニデス的概念であり、物理世界や心理世界の生の変化を数学世界にもち込んだようなものである。「完結した運動」だけが意味のある運動であると考える人は、完結した実無限だけが数学的に完結した意味をもつと考えるだろう。だが、数学の直観主義者や構成主義者は変化する過程を変化し終えた結果として考えることに同意しない。確かに、変化の只中に身を置くなら、そこは排中律が成立しない、典型的な非決定論的世界となっている。

 最も実数らしい性質が「連続性」であり、この性質のお陰で微積分が可能となり、それを使って私たちは自然を扱ってきた。数学では常識的な連続性を完備性(completeness)と呼び、関数について連続性(continuity)という用語が使われている。連続性を支える「限りなく近づく」ことのできる性質(つまり、収束は「限りなく近い」点の存在によって定義され、いわゆるε-δ方式によって考えられてきた)が点と線の不思議な関係を支えてきた。

 「点が集まると線ができ、線を分割していくと点に到る」という点と線の関係が実数における無限分割可能性という語のもつ意味を独特なものにしている。自然数をすべて集めても線をつくることはできない。こうして、実数が自然数より高い濃度をもつことはわかったが、その濃度が自然数の濃度の次の濃度か否かは今の公理的集合論においては証明できない。これが「連続体仮説は公理的な集合論から独立している」ということであり、ゲーデルとコーエンの結果をまとめたものである。