変化を知る

(3)連続性と無限

 連続的な運動変化、つまり、スムーズで途切れることのない運動変化はどのような変化なのでしょうか。自然の運動変化の基本的な特徴は連続的変化にある、と思われてきました。でも、この感覚的に明らかな特徴を非感覚的に理解しようとすると、事態は豹変します。運動変化を表象するのに感覚知覚を使わない装置があれば、感覚的でない仕方で運動の連続性を理解できます。この装置見こそが数学と物理学の関係の基本にあるものです。それは運動を感覚知覚的に表象するのではなく、数学的に表象することです。運動を適確に表象する装置が幾何学であり、それによって世界を非感覚的に描くという試みでした。

 運動の表象装置としての幾何学は、運動を描くのに不可欠な時間や空間の表象を含んでいます。その表象をさらに数学化するのが「幾何学の解析化」であり、それに伴い「無限」概念が重要な役割をもつようになり、「無限が物理世界に存在するかどうか」といった問いに正面から立ち向かわなければならなくなりました。

 連続性の解明は実数の連続性(=完備性、そして、実数値関数の連続性)として取り上げられ、実数の解明は解析学の基礎として不可欠なものになりました。パルメニデスによれば、実無限と可能無限の区別はなく、二つは同じ無限で、完結した無限だけが意味をもっています。でも、アリストテレスは二つの無限を区別し、実無限の存在を否定します。「数が増えていく、減っていく…」といった数の並びは認識上有効でも、数学的対象として無限を考えた場合、他の確定した数学的概念と自動的に組み合すことができなくなります。その意味で可能無限は曖昧です。可能無限は外延が曖昧な、反パルメニデス的概念であり、物理世界や心理世界の生の変化を数学世界にもち込んだようなものです。「完結した運動」だけが意味のある運動であると考える人は、完結した実無限だけが数学的に完結した意味をもつと考えるでしょう。でも、数学の直観主義者や構成主義者は変化する過程を変化し終えた結果として考えることに同意しません。確かに、変化の只中に身を置くなら、そこは排中律が成立しない、典型的な非決定論的世界となっています。

 最も実数らしい性質が「連続性」であり、この性質によって微積分が可能となり、それを使って私たちは自然を扱ってきました。数学では連続性を完備性(completeness)と呼び、関数について連続性(continuity)という用語が使われています。「限りなく近づく」ことのできる性質(つまり、収束は「限りなく近い」点の存在によって定義され、ε-δ方式によって考えられてきました)が点と線の不思議な関係を支えてきたのです。

 「点が集まると線ができ、線を分割していくと点に到る」という点と線の関係が実数の無限分割可能性という語のもつ意味を独特なものにしています。自然数をすべて集めても線をつくることはできません。こうして、実数が自然数より高い濃度をもつことがわかるのですが、その濃度が自然数の濃度の次の濃度か否かは今の公理的集合論においては証明できません。これが「連続体仮説は公理的な集合論から独立している」ということであり、ゲーデルとコーエンの結果なのです。

 実無限、可能無限は既にアリストテレスやカントが考察し、それが直観主義にも大きな影響を与えたのですが、20世紀の大勢は「「完結した無限」が集合であり、「生成途上にある無限」はまだ集合ではない」と考えました。したがって、運動に関しても、完結した運動だけが対象になりました。

「要素が集まると集合ができ、集合は要素に分解できる。」

「点が集まると線ができ、線を分割していくと点に到る。」

 上の文は随分似ています。点や線、そして実数の基本性質は集合概念によって表現し直され、したがって、集合の基本性質から点や線、実数の性質が証明できます。これが意味することは実に大きく、

(1)集合論は古典的世界観を支える数学である、

ことを帰結します。と言うのも、数号論が実数を基礎付け、その実数によって表現されるのが古典的世界だからです。特に、古典的世界の時空は実数によって表現されます。古典的世界観の時空に関するアプリオリな前提は古典力学の時空に関する前提と同じであり、その前提は実数のもつ性質そのものなのです。

(2)いつでも、どこでも対象とその状態が存在し、どの物理量の値も決まっている。

 対象の性質で重要なのはその性質の内容です。人には体重があり、「体重とはどのような性質か」という問いと「君の体重は何か」という問いは違います。君の体重が70kgであることが体重の重要な内容で、体重という性質そのものは通常は体重の定義において問題になるに過ぎません。対象の状態の内容こそが状態を決め、その内容は位置や速度の具体的な数値で表現されます。

 運動の連続性は運動変化がもつ特徴です。時間、空間が連続している場合、運動が不連続になるような状況があるでしょうか。古典力学は次のように仮定しています。

(3)連続する時空の中で対象が不連続に運動することは物理的に不可能である。

 運動する対象が生成消滅しない場合、その対象の運動は不連続ではありません。というのも、不連続な運動が起きるとすれば、対象は消えたり、現れたりしなければならなくなるからです。無論、数学的に不連続な関数を考えることは十分有意味なことです。でも、そのような対象は物理世界には存在しません。

 古典的世界観を支える(1)、(2)、(3)の前提は日常世界に浸透しています。それを前提にすべき理由より、前提にしないといかに不自然で、非常識的な事態が生じるか考えてみる方がよいでしょう。でも、三つの言明がそれで正当化されたと誤って考えないように注意すべきです。

 運動の表現に実数を用いるということが三つの前提を認めることを帰結します。「時間と空間の量子化」という表現は時間や空間を物質の原子論と同じように考えようということを意図していて、正に「時間と空間の原子論」です。すると、すぐに実数が不都合な装置であることがわかります。実数をそのまま使ったのでは原子論の主張と両立しないからです。そこで点ではなく区間で時間や空間の最小単位を考えるといった工夫が必要となってきます。区間を最小の単位にした場合、対象の運動はどのようになるのか、どのようにそれが表現できるのかという二つの異なる問題が出てきます。前者は物理学の問題であり、後者は言語、つまりは数学の問題です。