白ユリの花とそれが象徴するもの


 白ユリの花とそれが象徴するものとはいずれが重要なのでしょうか。ユリの生物種自体には固執しないというのが私の答えです。これは白ユリに限らず、他の場合も同様です。ですから、それと同じように考えれば、美人と美人が象徴するものは後者が重要ということになります。

 神は聖母マリアを「最も純潔な花」と呼びました。マリアは無垢で、汚れのない若い女性。私たちがマリアに出会うのは、神の使いの天使ガブリエルがナザレの彼女の家に行き、彼女に「喜びなさい。あなたは神に選ばれた」と受胎を告げる時です。マリアはこの予期せぬ訪問に驚き、畏れます。でも、天使は「神の恵みを受け、あなたは身ごもり、男の子を生むでしょう。その子の名はイエスと呼ばれるがよい」と語ります。キリストの生誕と処刑を除くと、受胎告知は何度も絵画に描かれ、マリアは美しく謙虚で、手元の時祷書から顔を上げ、驚いている姿で表現されています。天使ガブリエルが手に持つのは白いユリ。マリアは未婚で、まだ男性を知りません。

 ヨーロッパの歴史を通して、ユリは特別なシンボルでした。ユリの象徴的な価値は、中世よりはるか以前に遡ります。キリストが生まれる前のギリシャ人やローマ人は、ユリに特別な意味を持たせました。結婚式にユリをつかった花冠を花嫁の頭に飾り、花嫁はユリのように美しく、優しく、繊細で、彼女が他の男性に関心を持つことがないことを表わしていました。ユリは単に純粋さと豊穣の象徴というだけでなく、「聖母マリア」と「死」の象徴になってきました。彼女はただ一人の子イエスを生みますが、その子は死の運命とともにありました。神は人の姿になり、キリストとして十字架の上で死を迎えます。この物語はすべてただ一つの象徴白ユリによって表わされてきました。キリストは人間の罪を償うため世界中の罪をすべて引き受け、これは神の意思でした。こうして、ユリは純粋さと死の両方を表わすことになりました。

 ユリは、花としては最古の栽培植物の一つです。宗教的儀式や冠婚葬祭に供され、観賞用、食用、薬、化粧品にもなってきました。ユリは英語で「lily」、ユリにはたくさんの種類があります。ユリ科には250の属があり、ユリ属には110という膨大な数の種が含まれます。ユリ属は主に北半球のユーラシア大陸、東アジア、北米などに分布しています。ユリ属110種の中の15種が日本に自生しています。ヤマユリをはじめ、ササユリ、オトメユリ、カノコユリなどが日本特産の野生種です。

 西洋のユリ属のトップは「マドンナリリー(和名ニワシロユリ)」。古代ローマ人は神への供え物や観賞用だけでなく、球根を食料、薬品などにするため、白いマドンナリリーを栽培しました。ローマ帝国の軍隊と共にマドンナリリーは欧州全土に広がり、西洋ではマドンナリリーがユリの代表格になります。ところが、スウェーデンの植物探検家ツンベルクが1776年に琉球諸島テッポウユリを発見したことを契機に主役が交代するのです。日本からテッポウユリの球根が輸出され、米国やその植民地でも栽培されました。19世紀以降、欧米市場ではこの白いトランペット形のユリが復活祭の「イースターリリー」として好評を博しました。聖母マリアの純潔のシンボルでもあったマドンナリリーは、日本のテッポウユリに取って代わられたのです。

 つまり、ニワシロユリとテッポウユリは異なる種類であっても、それらが象徴するものはキリスト教では同じなのです。象徴するユリと象徴される純潔のマリアや死との関係はルーズで、象徴するものが微妙に変わっても象徴されるものに変化はないのです。物理的な象徴するものが変化しても、非物理的な象徴されるものは不変なのです。