私の昔話と伝説

 鬼女、天狗、山姥の伝説は信濃、越後のあちこちに残り、それらは『平家物語』、『愚管抄』などに見事に表現されていたものでした。能の舞台として戸隠や鬼無里が、神仏が集合した修験道の地として妙高、関山が歴史的に人々に記憶され、鬼や大蛇が人と存分に戦い合う世界が伝えられてきました。いつの間にか、昔話や伝説は私たちのふるさとの象徴であるかのように扱われ、ふるさとを語る必須の材料にされてきたように思えます。

 私たちだけでなく、今の歌舞伎役者、能楽師に鬼などの冥界の存在はどのように理解されているのでしょうか。伝統芸能は型や形を大切にします。その理由は魂、精神、心を直接に扱うことができず、その外観、外形しか扱えないからです。それは一般の人たちについても同じです。人は直接的に冥界と関われないため、文学的に表現された型に従って理解するのです。嵐寛寿郎の「鞍馬天狗」、能の「紅葉狩」や「黒塚」だけでなく、冥府魔道の「子連れ狼」等々、冥界と顕界が文学、演劇、絵画によって様々に表現されてきた私の子供時代の情報は、今の子供が怖がり、恐れる「鬼滅の刃」に登場する鬼たちの情報とは共通点を持っていても、微妙に異なっているのです。

 昔話のルーツは大昔にあるのではなく、意外にも新しいというのが私の考えです。私たちが知っている戸隠の鬼女の伝説は恐らく能の「紅葉狩」の後のものです。私の祖先の記録など数代前さえろくにわからないように、伝説や昔話の今の形は意外に新しく、しかも現在の伝統芸能に従って微妙に変化し続けているのです。昔話は、その意味で、つい最近の昔の話なのだと考えるべきなのです。昔話の名目的な起源ではなく、昔話の内容、その表現のされ方を中心に考えれば、昔話の最新改訂版こそ真面目に考えられるべきなのです。

 それでも、昔話のルーツを探れば、平安時代後期の世の乱れに必ずや突き当たります。仏教と神道が入り混じり、末法思想が蔓延し、人の持つ心の特徴が鬼や妖怪に集約されて表現されることになりました。浄土と冥界は随分違います。穢土と顕界はよく似ています。この差が多くの人に人の心の持つ凄さ、重さを認識させたのだと思います。

 現在の私たちの冥界への認識は平安末期の人たちとは随分違います。現代の鬼や天狗、山姥や妖怪はいったいどのようなものなのか。私のような老人の鬼と、孫のような若者の鬼の共通点、相違点を列挙してみるのも面白いでしょう。

 人には天女だけでなく、鬼が必要です。少なくても、私にはそのように思われるのです。恐れるもの、怖いものがなくなった世界は実はとても退屈な世界です。楽しいものばかりの世界は退屈極まりない世界です。嫌いなものがあってこその世界です。冥府魔道を突き進むのが魅力的なのは、鬼滅の刃をもって奮闘することが魅力的なのと基本的に同じです。これは昔話や伝説の中に時代を超えて共通するものなのでしょう。

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歌川国芳「相馬の古内裏」

平将門が討たれ、滝夜叉姫が呼び出した骸骨の妖怪