紅葉狩:芸能から伝説へ

 湾岸地域でも紅葉が色づき始め、妙高からは紅葉の便りがたくさん届いています。となれば、思い出すのは鬼女紅葉の伝説。「鬼滅の刃」で脚光を浴びていた鬼たちが登場するのが戸隠、鬼無里別所温泉などに伝わる鬼女伝説です。この伝説は室町時代から江戸時代にかけて能や浄瑠璃で、さらに明治時代(1887年)に歌舞伎で、「紅葉狩」として描かれてきました。平維茂戸隠山におもむき、そこで出会った紅葉見物の美しい女性たち一行に出遭います。その女性の正体が戸隠山の鬼女「紅葉」。明治中期出版の『北向山霊験記戸隠山鬼女紅葉退治之傳 全』では、紅葉は伴氏の子孫で、第六天魔王の力を持つ鬼です。彼女は都で源経基に寵愛され、一子を宿しますが、戸隠の地へ流されます。そこで徒党を組んで盗賊を働いたため、冷泉天皇の勅諚によって派遣された平維茂に退治されます。

 能の「紅葉狩」によれば、信濃戸隠に侍女を連れた美女が紅葉狩に出かけ、紅葉の木陰で休んでいると、平維茂(これもち)が従者と勢子を率いて通りかかります。維茂は美女の酒宴に加わり、優美な舞に見とれ、眠って夢をみます。維茂の夢に八幡神に仕える武内の神が現われ、女たちが戸隠山の鬼だと告げるのです。維茂が起きると、稲妻が走り雷鳴も轟く中、風が吹き荒れ、恐ろしい鬼が出現します。維茂は八幡神に祈り、鬼を退治します。戸隠山の鬼退治は観世小次郎信光の作品。

 平維茂による信州の戸隠山の鬼女退治を描いた信光の作品を河竹黙阿弥歌舞伎舞踊に書き換え、9代目の市川團十郎が自ら振り付けをして、明治20年に初演されました。竹本(たけもと)、長唄常磐津の三つの音曲によって、伴奏される舞踊で、平維茂による信州の戸隠山の鬼女退治を描いた同名の能の作品から歌舞伎化されました。

 信濃に残る伝説が能や歌舞伎に見事に昇華され、女性の本性が表現されてきたというのが無難な要約なのですが、疑問が出てきます。能の「紅葉狩」以前の物語がどのようなものかはっきりしないのです。

 まずは伝説の内容です。奥州会津(福島県)で暮らす笹丸夫婦は子供に恵まれませんでしたが、第六天魔王に祈ると、937年娘を授かることができました。娘は人並み外れた才知と美貌を備え持ち、また、野心も強く、豪農の息子から大金を騙しとり、上京し、「紅葉」と名前を改めました。才色兼備の紅葉は源経基の側室となります。紅葉は経基の正妻への嫉妬を募らせ、正妻に呪いをかけます。でも、そのことが露見し、紅葉は956年に戸隠に流罪となります。その後の紅葉は村人たちから受け入れられ、慕われるのですが、強い野心が疼き出します。紅葉を慕い、集まった人たちを束ね、賊の頭となり、不思議な妖術を用いて、近隣の里を荒らし出します。こうして、彼女は「鬼女紅葉」と呼ばれ、恐れられることになります。その悪評が京まで届き、平維茂が紅葉討伐に向かい、紅葉の首を討ち取ります。

 室町時代後期にできた謡曲『紅葉狩』では、鬼が美女に化けて平維茂に近づき、宴の中で、盃に鬼の顔が写り、正体を見破られる、という話になっています。河竹黙阿弥作の歌舞伎「紅葉狩」では、紅葉が「更科姫」として登場しています。現在でも、長野県の鬼無里や荒倉山には、紅葉が住んでいた内裏屋敷跡や鬼の岩屋が伝わっています。33才で命を落とした「鬼女紅葉」ですが、里人が彼女を敬う思いは消えず、10月にはその霊を偲んで紅葉祭りで賑わいます。

 さて、鬼女紅葉の伝説は室町時代後期成立の謡曲『紅葉狩』より古い証拠がありません。ですから、伝説があった可能性もあるのですが、観世信光によって創作されたものとするのが定説です。その後の河竹黙阿弥の歌舞伎の『紅葉狩』、既述の『北向山霊験記戸隠山鬼女紅葉退治之傳 全』によって伝説がより明瞭な内容をもつようになります。