天狗、鬼、そして、山姥

 能に「鞍馬天狗」、「黒塚」、「山姥」という曲がありますが、天狗、鬼、山姥のどれかが一緒に登場するものはありません。ですから、三者が互いに戦い、いずれが強いのかはよくわかりません。冥界の存在が互いにどのような関係をもつかは曖昧そのもので、顕界の人間のような密接な相互関係はなく、それゆえ、互いの人間臭い関係などなく、それが冥界の特徴になっています。顕界にある異種格闘技は冥界にはなく、それゆえ、いずれが強いか、弱いかの判定はできません(「鬼滅の刃」のような作品中では可能でしょう)。

 山姥は女性の妖怪で、山に入った女が山姥となったと考えられます。僧侶だけでなく、尼僧も、また、俗人の男女も天狗になります。鬼も性別に無関係ですので、いずれの妖怪、怨霊も性差別はないのですが、能の曲を見渡すと、圧倒的に女性の妖怪、怨霊が多く、冥界は圧倒的に女性優位なのです。また、冥界の存在は次のような立場から解釈されてきました。

・冥界の鬼、天狗、山姥を人間の情念や憤怒、懺悔や悔恨の象徴として心理学的に解釈する。

・冥界の対象を形而上学的な存在として理解する。

・冥界の対象を宗教的な存在として民俗学的に了解する。

・文学的な対象として表現する。

 これらは独立したものではなく、複雑に入り混じっています。具体的には能の曲、『平家物語』のような文学作品や『愚管抄』のような歴史書に登場する冥界の存在、柳田、折口の民俗学の性格、冥顕論、歴史の大義、仏教的世界観、末法思想神仏習合修験道密教等が雑煮のように組み合わされています。そして、それらの結果として、山岳地域に伝説として、天狗、鬼、山姥が存在することになりました。

 天狗の飯綱三郎、紅葉狩の鬼、金太郎と山姥はその代表的な伝説です。飯綱三郎は平安時代末期に飯縄山に祀られ、軍神として多くの戦国武将に信仰され、全国に広まりました。今でも東京の高尾山薬王院や、千葉県の鹿野山神野寺、飯縄寺、栃木県日光市の日光山輪王寺など、各地で熱心に信仰されています。

 信濃国戸隠に鹿狩りにやってきた平維茂の一行が紅葉狩の酒宴に遭遇し、宴に参加した維茂は美女の舞と酒のために不覚にも前後を忘れてしまいます。維茂は夢中で、美女に化けた鬼神を討ち果たすべしと告げられ、覚醒した維茂は鬼を退治するのです。これが能「紅葉狩」の中の鬼です。

 山姥の山廻りの曲舞をうまく演じたことから、百ま山姥と呼ばれ、人気を博していた遊女が善光寺参詣を志し、その途中で、越中・越後の国境にある境川に至り、そこで本物の山姥に会うことになります。異形の姿の山姥は、深山幽谷に日々を送る山姥の境涯を語り、仏法の深遠な哲理を説き、いずこかへ消えていきました。これが能「山姥」です。

 いずれも山岳地域が舞台になっていて、冥界が山にあり、そこに異形の鬼、天狗、山姥が存在していることが文学的に表現されていることがわかります。