霊魂や怨霊と日常世界(4):鬼、悪魔、悪霊など…

 怨霊や悪霊が登場し、それらが暗躍する世界は仮想の物語の世界であり、サンタクロースが存在する世界と似たようなものだと考えられてきました。物語の世界は顕界と冥界の両方を含み、しかもその境界をあえて無視する強い傾向を持っています。『愚管抄』や『平家物語』、それらを具体的に表現した能の世界、さらにはラブクラフトの神話体系、バラードのSF等々、私が職業上は否定したかった世界であるにもかかわらず、ある種のリアリティを与えることによって、その世界を本物の世界として生きてきました。実在しない架空の世界、単なる物語の世界が私の心を掴むのはどのようにして可能なのか、これは今でも私には相当の謎なのです。神話や宗教教義、小説や戯曲を事実とは違うと否定しても、その内容に心惹かれ、それに基づいて自らの生き様を決めることはどうして可能なのか、これは私には実に答えにくい謎だったのです。

 実証主義的、科学主義的に世界を考えようとしたなら、それに反する思想や宗教は端的に否定されるべきものの筈なのですが、私たちはそれらを否定すると同時に、それらの魅力の虜になることも簡単にできてしまうのです。この相反するような側面を説明してくれるのが「仮説」です。「原子が実在する」と仮定するのと同じように、「怨霊がいる」と仮定し、それを変化する世界の中に置き、他のものと一緒に働かせることによって、世界を変容、脚色しながら解釈し、「その世界を多様に体験すること=私たちが生活すること」であると考えるのです。どのような仮説を置くかに応じて、実に多様に拡大された世界が浮かび上がり、世界の役割が質量ともに幅を広げて浮かび上がってくるのです。

 これらのことは小説、映画、演劇などを考えると簡単にわかることです。私たちはどれも架空の話であることを十分に承知し、そこで展開される世界が仮定されたものであると知りながら、それでも私たちはそれが生活世界の重要な部分や側面を表現していると考え、共感したり、反感を持ったりしながら、現実の世界として包括的に体験するのです。

 暗黙の仮説により生まれる仮想世界、今風にはメタバース、あるいはアバターの世界は顕界の中の物理世界のみを認める物理主義には反するように見えます。物理主義的な顕界で冥界仮説を置いて考えることと、半物理主義的な顕界+冥界において物理主義的な科学仮説を置いて考えることの間には大きな違いはなく、実は似たようなことをしているに過ぎないのです。むしろ、私たちの想像力は仮説の多様で豊富な範囲によって具体的に展開されることになります。仮説によって、それがない時には見えなかった、隠れていた世界の側面、姿が浮かび上がってくるのです。そして、それこそが文学や美術、神話や宗教教義の役割だと考えてもいいのです。

 経験的に「何かを知る」には仮説が不可欠というのがほぼ常識ですが、文学、演劇などで描かれる世界ではさらに仮説が加えられ、存在するものが増えています。この仮説の付加によって、私たちは世界をより深く理解し、生活世界に意味を与えてきました。仮説は時には宗教、時には倫理、さらには思想や信念として取り上げられ、生活世界が様々に解釈されてきました。

 「純粋な物理世界」も様々な物理理論を仮定することによって描き出された世界です。冥界の怨霊や鬼も仏教の仮説によって存在します。そして、私たちの生活世界は様々な仮説を巧みに組み合わせて存在することになった世界で、常に変化することが大きな特徴になっています。

 いずれにしろ、仮説を設定して世界を考え、体験することは無常で、万物流転する世界で実行され、体験する仕方で仮説の効力を確認することを再確認しておきましょう。科学理論であれ、宗教教義であれ、仮説演繹的な知識追求は無常の生活世界の変化の中で体験されるのです。つまり、私たちが知識を得るのは無常の世界の経験、体験を通じてなのです。