神仏習合の具体例

 仏教と神道の折衷が神仏習合で、日本固有の神信仰と大陸伝来の仏教とが密接に結びついた状況を「習合」と呼んでいます。神社に仏像を祀る、寺院の境内に神社を構えるのがその例です。「神仏混淆」という用語もありましたが、日本以外の地域の土着信仰と世界宗教の間の「混淆」、「シンクレティズム」と区別するため、今では「習合」が使われているのですが、「習合」という言葉も曖昧です。

 仏教の伝来によって、古くから続く信仰(神祇信仰)が「神道」と呼ばれるようになりました(「神道」は既に『日本書紀』に登場)。仏教理論の影響を受けることにより、体系的な神道思想が確立し、それが中世神道説を形成し、全国的に広がっていきます。

 習合に似た表現を探すと、統合、総合、合併、同化などがあります。「神仏習合」という用語は仏教と神道がほぼ対等に習合したように思えますが、日本に入ってきた仏教が次第に人々の生活に入り込み、化学反応を起こすかのように、変容しながら、同化していき、終には日本の固有のものと区別がつかないほどに土着化したと考えることもできます。

 二つの異なる理論や思想が総合されて、矛盾のないシステムとして合理的に統一されるのではなく、生活の中で変容され、それまでの考えや様式の中に組み込まれていくのが日本の神仏習合。それを示す一例が「山越阿弥陀来迎図」です。山の神と阿弥陀如来が重なるようにして冥界と極楽が重なります。垂迹思想は後付けの整理であり、科学理論の総合化、統一化のような、仮説の整理統合による理論の拡大とは随分と違います。漢字が日本語世界に馴染み、風化するかのように同化し、大和言葉と漢語は互いに馴染み合うようになりますが、それと似たような仕方で仏教と神道は馴染み合ったのです。神道だけでは図示することができなかった冥界と顕界の係わりが仏教思想によって表現されたのが「山越阿弥陀来迎図」で、この図そのものが神仏習合の具体例になっているのです。

 今の私たちは命があるのは生物だけと考えるが、昔の人は自然がもつ力やエネルギーを命と感じていました。それゆえ、昔の日本では、生き物だけでなく、山、岩、滝、水の流れ、風などの自然のものは命そのもので、この生気論的な感覚がやがて、精霊、神の概念に変わり、渡来した仏教が習合して行きます。こうして、森羅万象に命があり、神が宿り、山にも木にも霊が宿るという自然と宗教の習合が出来上がります。

 「山越」という名字や地名は日本中にある。その原義は「山を越える」ことですが、近くを探せば、上越市板倉区に山越(やまごし)があります。山の稜線は此岸と彼岸を隔てる仕切りと捉えられ、それを越すことが浄土に行くことでした(長岡市のヤマコシは「山古志」で、平安時代の古志、高志に由来)。

 仏教の浄土と、死んで山に行き、天に帰るという土着宗教との二つが日本人の「あの世」。そして、折口信夫は『死者の書』で二つの山の間に沈む夕日が浄土につながると述べます。折口信夫が『死者の書』を書く前に見つめていたのは冷泉為恭が描く「山越(やまごし)阿弥陀図」(1863年、大倉集古館)で、それを折口自身が『山越しの阿弥陀像の画因』で詳しく述べています(青空文庫)。

 臨終間近の人の前に、阿弥陀仏が極楽浄土から山を越えて迎えに来ます。山越阿弥陀図はすべて鎌倉時代に入ってからの制作で、山の端にかかる落日か、または満月を阿弥陀に見立てています。阿弥陀如来信仰は、来世に阿弥陀如来の住む極楽浄土に生まれようとするもので、浄土教に共通しています。阿弥陀聖衆来迎図(鎌倉時代 東京国立博物館)では、日本の山水風景が描かれ、中央の阿弥陀如来が山のすぐ向こうから迎えに来ています。

 生活世界の具体的状況にフィットするように仏教思想が脚色、変容され、風土の中に同化した形で仏教メッセージが具体化されていきます。状況を提供する神道と、状況に適応し、それを表現する仏教という役割分担が長い間を通じてなされてきました。

山越阿弥陀

阿弥陀聖衆来迎図