能の中の冥と顕

 慈円の『愚管抄』で述べられた冥顕観を芸術として具体化したのが世阿弥。神、怨霊、精霊の主人公 (シテ) が名所旧跡を訪れる旅人 (ワキ) の前に出現し、土地にまつわる伝説や身の上を語るのが「夢幻能」。この演劇スタイルこそ世阿弥が完成させたものですが、それに対して登場人物全員が生身の人間であるのが「現在能」。能は現在能と夢幻能に大別でき、現在能は「顕」の世界に生きる人々だけが登場し、時間の経過とともに物語が展開します。夢幻能は、顕と「冥(みょう)」の世界が交錯し、過去と現在を往来しながら、冥界の怨霊が人間に自らの魂の救済を求めて舞台が展開します。

 能は前場(まえば)、後場(のちば)と呼ばれる前半と後半からなり、主人公のシテと相手役のワキの掛け合いで展開します。現在能のシテやワキはすべて生きている人間。一方、夢幻能のシテは、最初は人間として登場しますが、実は神、亡霊、怨霊、鬼、天狗、龍などで、いずれも冥の世界の存在で、「冥衆」と呼ばれます。ワキは僧侶や武士で、こちらは必ず生きている人間です。例えば、前場では旅僧がある土地を訪れ、その土地の人から昔話を聞く。そして、前場の最後に「実は、いま話したのは私の話だ」と言い残して、シテが消え去る。後場では、ワキの夢の中にシテが本来の冥の姿で現れ、過去の出来事を振り返りながら舞を見せ、夢が覚めると同時にその姿を消すという次第です。

 ところで、ワキは今では確かに「脇役」ですが、能ができた当時は今の脇役の意味はなく、ワキは体の脇に由来し、「分く」の連用形で、前と後ろに分ける部分という意味です。つまり、ワキは冥と顕の境目であり、能の言葉では間(あわい)です。ワキの多くは生者と死者との境界を旅しています。ワキは定住せず、諸国を放浪し、世間の栄華や名声などとは無関係なのです。ワキは生死の間にいるからこそ、神や怨霊とコンタクトできるのです。どんな創世神話も「区切る」、「分ける」ことから始まります。『古事記』では、天地(あめつち)が分かれた瞬間から物語が始まります。聖書では、神が光を創造し、昼と夜を分け、そして昼と夜、天と地などを命名し、創造の業を行います。区切る、分けることで何かが生まれるのです。区切るという意味では、言葉も文字と音とに区別されます。文字が誕生したのは紀元前3500年頃、シュメール人が生み出した楔型文字だと言われています。文字の誕生によって、様々なことが激変しました。音としての言葉は自分に密着したものですが、文字としての言葉は自分から離れていく。音としての私の言葉は私が死ねばなくなりますが、文字で書かれたものは私の「外側」に出て、私が死んでも生き残ります。

 能で表現されるのは、冥と顕の世界(つまり、彼岸と此岸)であり、双方をつなぐのが謡、仕舞で、祈りと共通する行為とも考えられます。夢幻能の物語は、顕と冥、そして、過去と現在が併存し、混在します。夢幻能は冥と顕をまとめ上げたのですが、冥界の神や怨霊、物の怪や妖怪の姿を顕界で表現しようとすると、どこか間抜けで、滑稽な姿になります。龍、鬼、化け物の姿をリアルに描くことはそもそも不可能に近く、それをカバーするのが能の面であり、仕舞であり、それらを熟知してまとめ上げた世阿弥の凄さなのです。