越後の端に生まれた私のコンプレックスなのか?

 「新潟県中頸城郡新井町大字小出雲」というのが子供の頃の私の住む住所で、とても長く、難しい漢字が続きます。そこは越後の端の地域。頚城は西頸城、中頸城、東頸城からなり、古くは上越地方を指した「久比岐」にまで遡るようです。既に奈良時代には「久疋郡」(正倉院庸布)、「頸城郡」(東大寺文書)と記されています。郡名の由来については、「国引き」説、古志(腰)(=古志郡)に対する「頸(首)」説、蝦夷を防ぐための「杭柵(くひき)」説などがあり、「頸城」という郡名が越後の住民が自発的につけた名前ではなく、外からつけられた地名であることを示唆しています。

 越後についてまとめられた文書となれば、鈴木牧之『北越雪譜』、橘崑崙『北越奇談』が有名です。よく取り上げられる「越後七不思議」に登場する多くは雪と石油に関わる自然の特徴であることがわかります。『北越奇談』に挙げられている頸城郡の勝所は市振、居田、五智、今町、関川、高田、春日山林泉寺などですが、上越地方の記述は圧倒的に少なく、越後の中心ではないことは誰の目にも明らかです。

 信濃からはずれ、越後の端に位置する妙高市新潟県の端であることを実感したのが小学校の修学旅行で新潟に行った時でした。長野市に比べると新潟市はなんとも遠く、まるで違う地域と感じたのですが、その長野も松本、諏訪、木曽などと比べると随分と違います。信州大学の多くの学部は長野ではなく、松本に集中しています。そのためか、信濃と越後の一部を組み合わして、「信越」県をつくってもよさそうな状況は十分にある訳で、「妙高戸隠連山国立公園」はそのような状況を見事に表現しています。

 とはいえ、自分が越後の人間で、信濃の人間ではないという意識があるのも確かなことで、そんなケチな根性はすっかり葬り去るのがよいに決まっているのですが、そうするとそれはわがふるさとの喪失につながります。この二律背反的な状況が私の中でずっと持続しており、おそらくそれは私が死ぬまで変わらないのだろうと今では観念しています。

 

*越後と信濃の間で揺れる私の「ふるさと観」は私の生まれた地域に大きく依存しているようです。上越市妙高市でも平坦な地域だと随分と違っていて、私のような宙ぶらりんの気分にはならない筈です。私が生まれた家の前は北国街道で、(小出雲坂ではありませんが)小出雲の最初の坂がちょうど始まるところだったのです。家の周りは斜面が多く、平野から里山へと地形が変わり始める場所だったのです。そして、平野は越後、山地は信濃という私の心の中での二分化がいつの間にか出来上がり、それは覆すことのできない事実として持続しているのです。ですから、私にとって妙高は越後と信濃の国境のような地域で、ある時は越後、別の時は信濃となってきました。