妙高の神社:要約

 これまで何回か妙高市の仏教や神道につて述べてきました。色々なコメントいただきありがとうございました。これまでの話を簡単にまとめておきます。

 神道への私たちのイメージは明治時代以後にできた国家神道に基づいています。それをさらに辿ると、 古代国家ができた頃の神道に行き着きます。大和朝廷神道を国家宗教にして、『古事記』や『日本書紀』を編纂して神祇官などの官制をつくりました。むろん、より原始的な時代にも、既にアニミズムシャーマニズムの信仰がありました。江戸時代には吉田家が幕府に委託されて神道を管理していました。そして、明治以降は国家神道となり、戦後になると神道は国家と分離されます。

 戦後に神社本庁をつくるとき、一つの宗教のように教義をつくるという意見がありましが、様々な神社がそれぞれの由来を持っていて考え方に多様性があり、それを尊重する集合体としてスタートしました。中心を伊勢神宮に置きながら多様性を尊重するかたちで考えられたのです。でも、戦後の神社は民間の宗教法人ですから、宗教的な主張や性格が問われることになります。議論の末、統一的な教義はつくらず、標準的な解釈をつくろうということになったようです。

 さて、新潟県の神社数は約4700社で、2位の兵庫県に1000近い差をつけて全国で最も多いのです。その理由の一つが、明治の頃、新潟県は人口が日本で一番多い県だったこと。 明治21年の人口は約166万人、次いで兵庫県の151万人で、何と東京都は4位でした。明治政府は神社の統合を各都道府県に呼びかけましたが、当時の新潟県は他県ほど強力に統合を推し進めませんでした。これが二番目の理由で、その結果、多くの神社がそのまま残ることになりました。

 新潟県内にある神社の約4分の1が「諏訪神社」に関連する神社で、県内で最多です。 全国2万以上ある諏訪神社の総本社は長野県諏訪市諏訪大社。そこに祀られているのが「建御名方神(たけみなかたのかみ)」。その母親が糸魚川の「奴奈川姫(ぬなかわひめ)」です。出雲勢力が日本海側を北上し、内陸に入っていく道筋の一つが妙高であり、それが諏訪大社までつながっていました。

 新潟県神社庁のリストによれば、妙高市には神社が何と94もあり、その中でも最も多いのが諏訪社で、23社もあります。次が八幡社で18、そして神明社の13です。妙高山麓に神明社が集まり、諏訪社は海岸、平野に広く分布しています。仏教と神道の組み合わせは色々考えることができますが、妙高市真宗・諏訪社が多い平野部と、真宗神明社が多い妙高山麓部に分けられそうです。

 神明社は、天照大神主祭神とし、伊勢神宮内宮を総本社とする神社です。祭神の天照大御神は、太陽を神格化した神であり、皇室の祖神(皇祖神)とされているため、農耕儀礼と密接に結びつき広く信仰を集めました。中世に入り朝廷が衰微すると、伊勢神宮の信者を獲得し各地の講を組織させる御師が活躍し、日本全体の氏神、鎮守としての存在へと神社の性格は大きく変わりました。

 八幡宮(はちまんぐう)は、八幡神を祭神とする神社で、全国に約44,000社あり、宇佐市のの宇佐神宮を総本社としています。八幡神は、元々は大漁旗を意味する海神といわれ、神社では誉田別尊(ほんだわけのみこと)、あるいは応神天皇(おうじんてんのう)の祭神名でまつられています。

 「神霊(=神)は無限に分けることができ、分霊しても元の神霊に影響はなく、分霊も本社の神霊と同じ働きをする」とされています。分霊によって同じ名前をもつことになった神社グループは、例えば「八幡さま」(‥八幡宮、‥八幡神社)、「お稲荷さん」(‥稲荷神社)、「お伊勢さま」(‥神明神社、‥皇大神宮、‥天祖神社)、「熊野さま」(‥熊野神社)などがあります。

 出雲族は大和族と国家を二分する巨大勢力でした。大和からたびたび討伐隊がやって来ますが、決着がつかなかったことは『古事記』にも述べられています。雷と刀剣の神である建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)と、鹿之神格化である天迦久神(あめのかくのかみ)が出雲の伊那佐の浜に来て、大国主に国譲りを迫ります。大国主はその子八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)が服従の意を示し、スサノオの系譜に連なる武門担当であった建御名方神(たけみなのかたのかみ)が建御雷之男神に敗れて諏訪湖の畔まで逃げました。大国主自らは戦わず、出雲の社を建築してもらうことを条件に国を譲ります。

 大国主命を中心とする出雲族の勢力は日本海の海岸を東にのび、越(こし)と呼ばれる北陸地方を勢力範囲とし、さらに東ヘ力をのばし、一部は姫川の渓谷をつたって進み、信濃に入りました。建御名方命とか諏訪明神という名前は、個人を指すのではなくて、諏訪に入ってきた出雲族の首長の名前です。