(5)小児往生と幼児洗礼:信仰と自由意志
キリスト教には宗教についてまだ自覚できない幼児に洗礼を行う教派と行わない教派があります。東方の正教会、カトリック教会、聖公会、ルーテル教会などはいずれも幼児洗礼を認めていますが、バプテスト教会、アーミッシュなどはこれを認めません。
これとよく似ているのが仏教の小児往生です。「小児が極楽往生できる」というのが小児往生で、宗派によって意見が分かれます。越後では、子供に御文を抱かせ、大人が代わりに「この子の後生助けたまえ」と頼めば、生後間もない小児でも極楽浄土に往生できるという「御名(おな)がけ」の儀式が行われていました。(革新的な)新井の願生寺はこれを自覚的な帰依がないと批判し、15歳以下の小児往生を否定しました。上記のバプテスト教会やアーミッシュの考えに似ています。一方、(保守的な)高田の浄興寺は小児往生を(全ての人を仏にするという)弥陀の本願に合わせて認めたのです。その結果、二つの有力寺院はいずれが異安心(異端)かで激しい論争を繰り広げることになりました。
これが大問題なのは次の理由からです。信仰にとって自覚が不可欠であるという仏教の正論は小児の往生を否定します。でも、否定すると、十方衆生を救うと誓った阿弥陀如来の本願と矛盾することになります。そこで、本山東本願寺は願生寺の主張を異安心と裁定しました。喧嘩両成敗のつもりなのか、「御名がけ」の作法も否定したのです。こうして、キリスト教でも仏教でも、信仰に自由意志や自覚が必要か否かということと神や仏が全知全能的な力をもつこととの間には矛盾があり、その構図を仏教もキリスト教も共有していることがわかります。
マルティン・ルターは、幼児洗礼が「神の賜物」であり、完全に受動的な聖霊の働きと考え、洗礼による聖霊の働きによって、心からの信仰の告白に導かれると理解しました。自由意志を認めず、すべてを神の意志とするルターなら、幼児洗礼も成人洗礼も違いはありませんから、何ら問題は生じません。でも、自由意志を認める人にとっては、自由意志に従って洗礼を受けるか否かは大きな問題となります。
現在、大谷派には帰依することを自ら表す帰敬式という儀式があり、受式年齢に制限はなく、生後間もない小児にも法名が与えられます。しかし、帰依がわからない小児や死者には帰敬式は不可能な筈です。でも、自覚のない人たちこそ、キリストや阿弥陀如来が救済しようとする人たちです。ここに矛盾の源があります。帰敬式の受式年齢制限を廃して、如来が与える凡夫往生を実現するにはどのような理屈が必要なのでしょうか。
今でも問題は未解決のままです。でも、信仰をもつきっかけや発端に私たちの自由な意志が関わり、それをどのように理解するかによって様々な立場が分かれるのは確かです。ですから、小児往生や幼児洗礼は自由意志に密接にかかわっていて、そう簡単には解決できそうもないことだけはわかります。自由意志と神の全知全能性の対立関係について既に述べましたが、小児成仏や幼児洗礼の問題は実はこれと同根の問題なのです。
従って、小児往生や幼児洗礼の問題は一つの宗教や宗派の中で論議を重ねるだけで解決できる問題ではなく、自由意志の有無、神の存在、その絶対性等々のより一般的で、基本的な問題の僅かな一部に過ぎないのです。それ故、キリスト教や仏教の中の問題として解決できると考えること自体が誤りなのです。ましてや、浄土真宗の中だけで解決できる問題ではないのです。
*願生寺と浄興寺との間の論争を具体的に再現してみるなら、現在の私たちの自由意志、子供の心理等の知識によって論争の構造や解釈が浮き彫りになる筈です。そして、宗教と科学の関係の一端が明らかになる筈です。
(6)もう一つの異安心:三業惑乱
異安心は浄土真宗を特徴づける異端論争ですが、その発端の一つである小児往生が可能か否かの論争が東本願寺派の願生寺と高田の浄興寺の間で1685年に起こります。願生寺の栄誓が追放され、新井掛所がつくられ、後に新井別院となり、その報恩講は「おたや」と呼ばれることになります。三業惑乱論争が西本願寺で起こり、その後始末と体制是正のために姫川原の正念寺の三葉勧学が貢献しました。これら二つの異安心論争の結果が、今の妙高市の9割以上の寺院が浄土真宗であり、市民の多くが無意識であれ、門徒であることにつながっているように思われます。
三業惑乱は今から220年前に起きた浄土真宗の異安心(異端)論争です。1797年から1806年までの約10年間、教義論争から権力闘争へと続き、幕府まで介入した西本願寺の争いでした。既述の東本願寺の小児往生に続き、西本願寺でも異安心問題が起き、しかもその問題構造がよく似ているのです。浄土真宗本願寺派(西本願寺)では親鸞の教えを正確に伝えるために能化制度がありました。能化(のうけ)は本願寺で教義と安心(あんじん、信心のこと)を取り仕切る最高責任者のことです。さて、三業惑乱の発端は越前にあった「十劫安心(じっこうあんじん)」という異安心です。その別名は「無帰命安心」ともいわれます。「安心」は「信心」のことで、「無帰命(むきみょう)」は阿弥陀仏に救われていない、ということです。親鸞、覚如、蓮如の信心は同じですから、彼らの信心と異なる信心が異安心です。「十劫安心」は「十劫の昔に、既に私たちは助かっているのだから、さらに求める必要はない」という信心のことです。これが間違いであることを示し、正すため、2代目の能化知空(ちくう)の頃から帰命の一念を強調していました。本願寺は6代目の能化功存(こうぞん)を越前(福井)へ派遣し、彼は阿弥陀仏をたのむ一念の体験が肝要であることを力説し、十劫安心を徹底的に批判しました。1797年、功存が病気で亡くなると、弟子の智洞(ちどう)が能化を継ぎました。智洞は学林での『大無量寿経』の講義の際に「三業(さんごう)で阿弥陀仏をたのまなければ助からない」と教えました。三業は身業(しんごう)、口業(くごう)、意業(いごう)のことで、身体で行い、口で話し、心で思うことが三業です。「三業で阿弥陀仏をたのまなければ助からない」は「身体と口と心でお願いしなければ助からない」ということです。これが「三業安心」、「三業帰命」と呼ばれてきました。ところが、浄土真宗の教えは「信心正因(しんじんしょういん)」です。親鸞は「涅槃の真因は唯信心をもってす。」(『教行信証』「信巻」)と述べ、「浄土往生の因は信心である」ことを意味しています。浄土に往生して悟りを得る因はただ信心のみです。信心は阿弥陀如来のはたらきですから、信心だけで往生の因が出来上がる、すなわち信心以外の行いは往生成仏の正因ではなく、称名念仏は正因にならなりません。これに反するのが能化の講義でしたから、それに反論したのが大瀛(だいえい)でした。大瀛は命がけで智洞の講義の不審をただす手紙を書き上げ、二つの質問をしました。それらは「なぜ信心正因が間違いなのか」、「なぜ三業帰命でなければならないのか」です。こうして三業惑乱は「三業帰命」か「信心正因」かという2つの派閥に分かれて、各地で激論が交わされました。
幕府はそれまで、教義論争に介入しない方針でしたが、各地で争いが起こり、寺社奉行の脇坂安董から「直ちに騒動をおさめよ」と本願寺に警告が出されました。しかし、本願寺に騒動をしずめる力がなく、京都所司代によって、大瀛と智洞の討論がなされました。
大瀛と智洞の間の法論では、生死をさまよう重病人であった大瀛は堂々と論陣をはり、親鸞が「涅槃の真因は唯信心をもってす」と述べた「唯」はただ一つである、なぜ三業帰命が必要なのかと「唯」の意味を問いただし、智洞を撃破しました。その論争の後も、大瀛は寺社奉行に分かるように浄土真宗の他力信心を語り、口述筆記で安心書を作ります。それを寺社奉行に提出した直後、大瀛は危篤に陥り、この世を去ります。
徳川幕府はどの宗派にも一定の経済的利益と宗教的権威を与えることで、仏教界の不満を抑え、幕府に従わせました。仏教寺院を幕府の行政機関として活用することで、国民を個人単位、あるいは各戸単位で管理統括しました。これらの政策が幕府の三業惑乱の始末によく表れています。それはヨーロッパの宗教裁判と違って、どの宗派も公平に扱い、裁定を下しています。政教分離ではなくても、徳川幕府は各仏教宗派には公平でした。
本願寺自体も閉門百日となります。やがて閉門が解け、開門した本願寺は、法主の本如の名で、『御裁断の御書』を発表します。この「三業帰命」と「信心正因」が対決した10年にわたる三業惑乱によって、「三業帰命」は退けられましたが、振り子がふれるように今度は帰命の一念にふれることを恐れるようになり、浄土真宗の肝要である「たのむ一念」にふれなくなってしまったのです。現在でも「十劫安心は間違いだ」と叩けば、三業安心にふれ、「三業安心は間違いだ」と叩けば、十劫安心にふれます。他力信心の振り子はなかなか止まってくれません。
その後、1824年に「勧学寮」が作られて、「能化」の代わりに「勧学」が設けられます。新井の正念寺の三葉勧学(興隆、僧朗、慧麟)は1830年代と想定できますから、本願寺派が三業惑乱から立ち直るための新組織がスタートした直後のことだとわかります。数名の勧学らによる勧学寮という門主の諮問機関である組織を設置し、それに勧学として出直しに係わった一つが正念寺でした。
*正念寺については『新井市史』上巻「第6章生活と文化第四節三葉勧学と崑崙舎」、pp.842-9.を参照。